Chernobyl Medical Fund Newsletter
 (6)


チェルノブイリ
医療支援活動報告記

          医師として再びベラルーシへ

橋本すみれ

 医学部6年生だった昨年夏、同級生3人と菅谷先生の甲状腺癌検診に同行させていただき、今年再び1人でご一緒させて頂きました。
 私はベラルーシで何を見たのだろう。それが「今年の夏も検診に同行させてください」とわがままを言い出すきっかけだった。昨年はまだ学生であり、系統講義を終え病院実習も半ばまでこなしていた医学部の最終学年とはいえ、知識も技術もないに等しく、先生方や現地の方々の間を右往左往するばかりでお世辞にもお役に立ったとはいえず、さらにいえば何かを見、体験したのかすらも、おぼつかないような状況だった。ベラルーシの後、私たちは南米を40日間旅行したので、夏休みを終え日本に帰国してみると、いろんなビックリの気持ちの中に、全ての思い出がごちゃごちゃと詰め込まれているばかりで、あの事故のこと、ベラルーシの国の人々のこと、菅谷先生のなさってきたこと、せっかく知る機会を与えられた10日間で、見てきたはずのものが「ものすごく感動的な旅だった」の感想にくくられてしまったのだった。
 今回は2回目の訪問であり、私自身が学生から医師へと変わったこともあって、前回よりもはるかに多くのことを見、そして感じる旅になった。2度目のベラルーシは新しい面をたくさん見せてくれたけれど、私がもう一度会いたいと願った人々の温かさ、優しさは変わらず、彼らのはにかんだような笑顔にとても懐かしい気持ちにさせられた。単身現地で過ごされた菅谷先生の今までのご苦労は、私などには想像もつかないが、ここの人たちと関わっていこうと先生が思われた理由が少しわかったような気がしている。
 そしてなんといっても、ゾーラチカの子供たちのかわいかったこと。本当に、彼らの未来のためならば何の見返りもいらない、できる限りの事をしてあげたいと思ってしまう。だが、何かをしようと思っても、なかなか行動に移せないことは人生で多々あると思う。外科医として現地に赴き、その枠をこえて文化・芸能という全く違った分野でもあれだけ大きな援助をしている菅谷先生には言葉もない。
 先生は自分は外国人であるというスタンスを崩さず、現地の人たちが自立していけるように手を貸しているだけだと淡々とおっしゃるけれど、それを継続することがどれだけ大変な作業か、短期間行って、横で見ているだけでも疲れてしまいそうになるのだ。けれど、ことさら苦労を強調することもなく、自然に行動されている先生を間近で見、私もこんな風になりたいと思った。
 モーズリでの検診でも、いかに現地の方々が先生の健診を待ちわびているかを肌で感じることができた。平日だったにもかかわらず、部屋の外には常に長蛇の列ができていた。部屋の隅でエコーを当てる私の姿は、さぞかし「あの若いのはなんだ」と思われていたことだろう。それでも検査の後、私の片言の「ノルマルナ(大丈夫ですよ)」に飛び切りの安心した笑顔を見せてくれる方々に、こちらのほうが幸せな気分にさせていただいた。
 しかし、涙が出るほど悲しかったのは、ゴメリの郊外まで車を飛ばして家庭訪問に行った時のこと。先生が手術をされたバーリャちゃんは家にはおらず、お母さんとその妹さんたちが迎えてくださった。私はそのときまで、彼らが現在立ち入り禁止区域になっているチェルノブイリ30km地点に住んでいて、強制移住させられた家族だということを知らなかった。そして、移住させられたその地すらも、汚染されているということも。短い夏に花が咲き、馬がいて、ガチョウの親子がたわむれるのどかな田園風景が、未だにあの事故の陰に脅かされているということを。
 そしてお母さんは、「私たちのことを忘れないでいてくれてありがとう」といって涙を流し、私たちを抱きしめてくれた。「私たちはもう2度とふるさとに帰ることはできない。ただ死んで骨になったら、ふるさとの土に返してほしい」と話すお母さんに、どういう言葉をかけたらいいのかわからなかった。
 情報が溢れ返る世の中で、日々新しい出来事が起こり、莫大な量のニュースが身の回りを流れていく。こんな中で、あの大参事のことはまるで遠い昔の、歴史の一こまのように人々の記憶の片隅に追いやられているように思われる。しかしその中で、ただそこに住んでいたというだけでふるさとを追われ、被爆の病におびえながら、見知らぬ土地に根を下ろさねばならなかった人々がいる。もはやニュースで取り上げられることもない、人々の記憶の中に埋没していくところに。それでも彼らは間違いなく私と同じ時代を生き、同じ地球の上で暮らしている。ほんの数時間訪れた私たちを、あんなにも温かく迎えてくれた彼女たちの、別れるときの力強いその腕の力と、寂しそうな瞳に、思わず涙がこぼれそうになった。運命というにはあまりに残酷すぎる。東京に生まれ、都会で生きてきた私とは比べるべくもない、先祖から受け継いだふるさとと呼ぶ大地を奪われた悲しみと、孤独はどれほどのものだろう。
 ロシア語がしゃべれないことは、現地に行ってコミュニケーションを取る上で致命的な弱点だ。例えば検診をしていて、質問に答えられず(そもそも質問が理解できず)、がっかりさせてしまうことがたくさんあった。もっと話せれば、もっともっと彼らの笑顔が見られるのにと思った。しかし私は、家庭訪問のあの場で自分がロシア語がわからなくて良かったと思ってしまった。彼らのつぶやく悲しみの言葉の一つ一つを聞き取れなくて良かったと思ってしまった。通訳の方の言葉を通して知った彼らの悲しみだけで、胸が押しつぶされそうだったから。どんな言葉がかけられるのか全くわからなくて、ただスパシーバ(ありがとう)と繰り返した。そして小さく日本語で、「忘れません、また会いにきます」とつぶやいた。
 日本で日常生活に戻れば、忘れてしまう経験もあるだろう。けれど、彼らと出会ったこと、彼らが現実に今、生きていることだけは忘れないでいたい。そしてあの事故の全ての犠牲者に少しでも幸せが訪れるよう祈りたい。遠く離れた日本で、それがせめてもの私にできることかもしれないと思うから。
 最後になりましたが、同行させていただいた菅谷先生はじめ、皆様方およびお世話になった方々全てに、この場をお借りして心からの感謝を述べさせていただきます。どうもありがとうございました。

 今回の訪問は、前回は知りえなかったあの事故の暗い影の部分を断片的ながら知ることでショックを受けた部分もあるが、嬉しい再会もあった。昨年知り合った医学生(8月に医師になったばかり)とまた会えて話す機会に恵まれた。とても楽しい時間を過ごした後、彼に医師の給料をたずねると、彼は工事中の橋を指差し、あの橋を作っている人よりも低いよ、といった。一応話には聞いていた。給料が低く、医師の倫理観が育ちにくいこと、医師から製薬会社のセールスマンなどに転身する人も少なくないこと。しかし、日本で医師になり、それなりの生活保障を得ている自分にそれを実感するのは難しかった。実際に目の当たりにすると、また違った実感が湧いてくる。
 労働者階級が、十分な給料をもらうことに異論があるわけではない。また、職業に貴賎はない。それはそのとおりだ。しかし、生命の瀬戸際にいて、ときには自分の命をかけても人の命を救わねばならない医師が、日々の自分の暮らしを心配しながら仕事をしなければならないのはあんまりではないかと思う。
 しかしそこで、昨年お会いしたナターリア先生の言葉を思い出す。私は昨年も、そんなに低い給料で医師の責任感、倫理観を育てるのは難しいのではないですかというぶしつけな質問をこの現地の女性医師にしたのだった。答えは、「たしかに、日本や欧米のように、この国での医師は“いい職業”ではありません。給料も低く、みな生活の心配をしながら仕事をしています。この国で医師という職業を選ぶことは、重い十字架を背負うことかもしれません。けれど、であるからこそ、ここで医師になることを選ぶ学生には、医学部に入学する時点で強い意思と覚悟が求められるのです。そして、人を救いたいという理想を持った人こそが、この国で医師になるのです」というものだった。この国の医学生は、私など比べものにならない責任感を持って自分の人生と向き合っているのではないかと、のほほんと医学生をやってきた私は、そのとき圧倒されたのだった。
 その女性医師の母親もまた医師であったという。事故のとき、若い医師たちが現地に赴くのをためらう中、自ら手を上げて現地に入り、被爆者の救護に当たったという。そして、自分自身大量の被爆をし、白血病で昨年なくなったという。悲しみと尊敬をこめて、彼女はお母さんのことを話してくれた。同じような事故あるいは災害が将来起こったとき、私は自分の危険を顧みずに人を救うため行動できるだろうか。1年前の私の答えは即座にNOだった。医師として、未熟ながらも現場にたち、日々患者さんと接している今の私は、昨年に比べればこの質問に責任感を持って向き合えるようになった。現実に手を挙げるかと問われれば、そこまでの覚悟はできていないが、それでも自分が医師として必要とされているならば、行かねばならないと思うのだ。
 彼女は別れ際に学生の私たちに向かって、親愛の情を込めて私の同僚と呼びかけてくれた。世界中に医師としての理想を追求すべく真剣に働いている同僚たちがたくさんいることを忘れず、いつか再会した時、胸を張ってお互いの仕事を語り合えるよう精一杯努力していきたいと、今強く思う。




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