Chernobyl Medical Fund Newsletter (6)


この目で見て、ふれた
     ベラルーシ

鳥居洋子

 7月25日から8月3日の日程で、昨年に引き続きベラルーシ医療支援が行われました。私はCMF東京連絡事務所の代表としてお供させていただくこととなり、いつも絵手紙・ニューズレターでしか触れていなかったベラルーシ共和国が急接近してきた感じです。メンバーは、菅谷先生、ドクターとなった橋本すみれさん、CMF松本事務局の千原幹司さんと私の4人です。まず、成田空港で大きな段ボールを3個とスーツケースを引いた先生が現れました。「今回は4人で荷物を分担したので重量オーバーもなく助かった!!」と先生がホッとしていらっしゃいます。毎回支援物資をお1人で運んでいらした先生のお姿を想像し、5年半の滞在中に、せめて出発まで私たちにお手伝い出来ることがあったかもしれないと、今では遅すぎますが早くも反省した次第。
 ベラルーシに到着するやいなや、強制的に国の保険の手続きをさせられることになりました。入国・出国の手続きの大変な国といつも先生からお聞きしておりましたが、シーンとした空港で外国人は私たち4人だけで、かなり緊張します。早くも2人の係官が先頭の千原さんになにやら話し始め、そこで通行止め。私たちは招待状・旅行目的のロシア語の手紙を渡し、怪しい者ではないことを懸命にアピール、最後は菅谷先生がベラルーシ共和国からいただいた切り札の勲章をさりげなく荷物の上に置きました。
 係官の人たちの目が勲章に向かったおかげで(?)無事入国できたのだと思います。作戦成功、千原さんがホッと一服、美味しそうなタバコの姿が忘れられません。
 通訳の小川さん、ドライバーのサーシャさんの姿を見つけた私たちは、緊張した旅から解放されました。そしてモーズリまでは信号もない、ひたすら森の中を走り続ける5時間のドライブでしたが、いつ到着するかわからない私たちを、パレースカヤ・ゾーラチカの子供たちが出迎えてくれたではありませんか。先生の笑顔は、今までの長旅の疲れを忘れてしまうかのような、素晴らしい笑顔だったことは言うまでもありません。
 モーズリ到着後すぐに、あわただしく明日からの住民甲状腺検診の準備に取りかかりました。写真で見たような診察室はあらかじめ準備されてはいません。普通のリビングを昨年の診察風景の記憶をたどりながら、4人で机やベッドをあちらこちらに移動しながら、診察室に模様替えするのです。触診するための椅子やエコーを設置、ベッドを診察しやすい位置に移動、最後に私が患者の実験台となり、菅谷先生にエコーの検診をしていただき、機器も(私も?)正常ということで準備完了。立派な診察室になりました。
 今回は平日の検診日にもかかわらず、2日間で520人の住民の方々が検診を受けにやってきました。朝早くから、静かに外の椅子に何人かのお年寄りの方々が診察を受ける順番を待っています。言葉のわからない私たちに訴えることなく、じっと待っているのです。家族連れや、かわいらしい孫の手を引きながらやってくるお祖母ちゃん、術後の不安をかかえている婦人達、次から次に休む暇なく大勢の人たちが診察室に押し寄せて来るのです。
 診察室では、今までの検査の報告や薬の飲み方、体調不安など住民の方々のロシア語を、小川さんが菅谷先生に通訳します。専門用語になると辞書を引きながらの通訳になります。そして先生の触診、Dr すみれ氏の超音波の検査です。住民の方々は、ベッドから起きあがりながら聞く、Dr すみれ氏の「ノルマナ!」(だいじょうぶです)の言葉に安心して帰っていきます。その時々の心からのうれしそうな顔が、安全上の理由で開放されない窓からの換気もない、もちろん冷房もない悪い空気で酸欠状態になりそうな状況の私たちを、最後まで頑張らせてくれたようです。パパ、ママ、お姉ちゃん、妹、そして弟、家族で検診の順番を待ち、それぞれの検診をしているときの家族の心配そうに見守る目が、今でも心に残っています。そんなモーズリ診察は翌日も続きました。
 さて、7月31日はいよいよモーズリとお別れし、ゴメリで2日目の訪問診察をした後、ミンスクへ移動する日です。最初の検診はターニャ(19歳)で病院の看護師として勤務する予定だそうです。ウオッカの好きなお父さんに迎えられ、検診後のテーブルには沢山のご馳走が…。3年前に先生が訪問検診したときには、帰り際にそっと「娘は結婚できるのか?」と尋ねたそうですが、今回は私たちの前で「結婚してほしい!」と嬉しそうに語っておられました。
 次に訪ねるバーリャ(22歳)のお母さんがしびれを切らして迎えに来てくれました。本人は保養中のため留守でしたが、親戚の方と友人が外で出迎えてくれました。時間もないので、先生はその場で触診、そして帰ろうとしましたが、そうはさせてくれません。やはりここでもテーブルにはご馳走が…。バーリャから電話がかかってきて先生と話をすることも出来ました。娘は母親の体を、母親は娘の体の心配を先生に話す何とも辛い光景です。この家族は、30キロゾーンで事故に遭い、強制移住でゴメリの郊外に住んでいますが、ここも汚染地です。あとで先生がバーリャと見た美しい夕焼けの場所に案内していただきましたが、そこは背丈以上のトウモロコシ畑となっていました。
 この地区の住民は、毎年チェルノブイリ事故の日にバスを出し村に戻るそうですが、今では半分以上の村人が亡くなってしまったそうです。「ふる里に戻れるときはお墓に入るとき」とポツリとつぶやきます。「事故はだんだんと忘れ去られていきますが、毎年先生が私たちを訪ねてくれるので、生きていく励みになります。ハグ(抱きしめ)させてください」。彼女たちのそのぬくもりが、いつまでも残っています。
 日本から2日間がかりで着いたミンスク、そして信号のない1本の道をひたすら走り続け、モーズリへ先生を向かわせたものは?先生の背中を押したのは?この地を訪れて初めてわかりました。我慢とあきらめに慣れているベラルーシの人たちですが、家族中、いや村中の人たちが、先生を待ってくれているのです。笑顔、精いっぱいのご馳走、思いやりのある言葉、こんな素晴らしい人々に囲まれると、この人達の気持ちに応えるためにも来年も訪れなくては、と私たちの心も奮い立ちます。先生が一言つぶやきました。「5年ぶり1年ぶりに会った人たちだけど、月日の流れを感じさせない。ボクはベラルーシ人になったな」と。
 8月に入りベラルーシの秋の気配を感じながら、無事に帰国できました。沢山の経験と先生のご苦労を垣間見ることのできた貴重な10日間でした。有り難うございました。
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