Chernobyl Medical Fund Newsletter(4)


 ベラルーシ人の目に映った日本

オクサナ テスロバ

オクサナ テスロバ医師  私が日本に来ることになるとは想像もしていませんでした。この国は、私たちからうんと離れているのです。何千キロも、飛行機で一昼夜、そして列車では1週間…。

 私の応募が選ばれたと聞いたとき、とてもうれしかったです。私よりも、もっとふさわしい医師たちが面接を受けていましたので、正直に言ってうまくいくとは期待していませんでした。けれど、喜びと同時に、ほんの少し悲しくもなりました。なぜなら、私は家族から離れなければならなかったからです。夫のアレクサンダーと、今、8歳になる息子のジーマから。私の家族は私をサポートしてくれました。彼らにはとても感謝しています。

 私に同行してくださった小川さんとともに、私は1月半ばに日本に到着しました。この国に着くなり、衝撃を受けました。私たちがベラルーシを発つとき、向こうは雪に覆われ、気温は−30℃!!にも下がっていました。東京では、優しい太陽と暖かさ…、そして、緑の木々に迎えられたのです。私たちの国では、トウヒだけが一年中緑のままですが、冬になればほかのすべての木々は葉を落としてしまいます。電車で松本に向かう道々、見たことのない景色に魅了されどおしでした。

 ベラルーシは平らな国で、山がありません。私は緑の木々に覆われた山々や、その斜面にある古風で趣のある小さな家々にうっとりし、これらの光景は今でも私に喜びを与えてくれます。

 松本ではとても温かく迎えていただきました。私は市長の菅谷先生、長野県立こども病院院長の宮坂先生、千原さん、北和田さんをはじめとするCMFの方々に紹介していただき、また私の指導者である新生児科部長の中村先生にお会いしました。皆さん、私と会えたことを喜んでくださり、友達といるように感じられました。私たちはたくさんの事柄についておしゃべりし、私がお箸を使って食べるのに挑戦したとき(初めての経験でした)や、お茶(日本茶)に砂糖をいれて飲んだとき(私の国では、普通と思います)はおもしろがって笑っていました。

 長野こども病院は、まずその建築様式が衝撃的でした。遠くから、はじめにその赤い屋根が見え、そしてあの独特の形に驚きました。とくに、時計塔です。あとで分かったことですが、時計塔は6時間おきにメロディーを奏でさえするのです!

 私は、病院近くの職員宿舎に住むことになりました。ここに私の日本生活がはじまったわけですが、部屋は畳が敷いてあるだけで、一般的なベッドやテーブルと椅子はなく、すべて―寝るのも、座るのも、書くのも―床でやらなければなりません。それでも、部屋はとても機能的で、すぐにできるようになりました。

 日本での2番目の試練は、お店に行くことでした。小川さんが助けてくださらなかったら、私は最初の1週間、ずっとお腹をすかせていたことでしょう。お店にはいろいろな商品がありますが、私は日本語が分からないので、推理するのが難しいのです。あの箱や、この袋には何が入っているのでしょう?

 最終的には私も学んで、今ではどこで何を買ったらいいのか分かりますし、以前知らなかった品を試したり挑戦してみたりしています。夕食に食べるつもりのものが何なのか、はっきりとは分からないというのは、すごくワクワクすることです!

 新生児科では、温かく、誠意をもって迎えていただきました。中村先生は、医師や病院のすべての部署に私を紹介してくださいました。この病院は外観よりも中身の方がさらに素敵でした。私は、本でしか読んだことがなかったものを自分の目で見ることができました。私は、女性や子どもたちに対する気配りや配慮に大変感銘を受けました。私は、すべての職種が「チームとして」一緒に働いていることに感動しました。そして、それぞれの症例での「チーム」は(疾患や子どもが違うため)違うのに、仕事は常に統制がとれており、非常にハイレベルなのです。

 本物の友達を見つけたのは北和田さんの中にで、彼女はすごく優しくしてくださいます。彼女の家に泊めていただき、一緒に歩き、美術館や、日本人形や、人形や折り紙を作る材料のお店(それ自体が美術館のようです)を訪ねたりしました。北和田さんは日本風にじゃがいもを肉と(間違いでなければニクジャガ)、あるいはご飯をタケノコと、調理する方法を教えてくださいました(でも今は1つ問題があります:ベラルーシでは、どこでタケノコを買えばいいのでしょう?)。私たちは一緒におしゃべりし、笑い、そして悲しみました。北和田さんは私にとって非常に大きな精神的支えになってくださいました。ふるさとから離れていることがとてもつらいということは否定できませんから。彼女に会うと私は魂がすぐに安らぐのを感じます。

 滞在中、私は3回旅行に行きました。

 最初の訪問は大町市で、中村先生が企画・実行された新生児科医のフォーラムでした。3日間の会議で、教授、医師、そして看護師も演者となっていました。こういった催しに参加するのは私にとって初めてでした。私の国では、通常、医学会議は医師のものと看護師のものが分かれており、公的な行事で教授が発言をするので、すべてが非常にまじめなものになるのです。ですから、このフォーラムが非常にユーモラスに開催されたことにとても驚きました。開会と閉会の日に披露されたのは…、マイケルジャクソン(中村先生と田村先生が衣装を着て)の歌『This is it!』(そして、これはまさに「it(そのとおり)!!」でした)。ステージはバンクーバーオリンピックのテーマ(五輪、スキー、スキーポール、ヘルメット、グローブなど!)で飾られていました。

 どこに行ってもライトとイルミネーションがあり、演者が割り当てられた時間で終わらない時は、容赦なくフラッシュがたかれ、ベルの音が鳴り、司会者には人工雪が降りかかっていました。私はとても楽しんだと同時に、たくさんの有用な情報を学ぶこともできました。とくによかったのは藤原教授のサーファクタント合成に関する講演でした。彼の論文をたくさん読み、なんて素晴らしいのだろうかと敬服しました。

 しかし、私が大町市の学会で好きだったのは、学術的な抄読のみではありません。私たちは旅館に滞在し、日本の宿の中がどうなっているのか見ることができました。私と同室だった小久保先生は、温泉を見せてくださいました。温泉について読んだことはありましたが、浴槽がすぐ外にあるなんて、考えたこともありませんでした!雪が積もった中で泳ぐのはとっても珍しいことでした!

 夕食パーティーでは、和太鼓奏者たちが技を披露してくれました。彼らのパフォーマンスは息をのむもので、私の心臓までが太鼓のリズムに合わせて脈打っているようでした。私も大太鼓を少し「ノック」させてもらいましたが、はたから見るほど簡単ではありませんでした。

 2番目の旅は中村先生と小久保先生と一緒の広島でした。広島は大きな喜びと深い悲しみの街として私の記憶に残るでしょう。宮島では感激で我を忘れるほどでした。この場所の神聖さを本当に感じたのです。私はそれまで、こんなにも多くのお寺が1つの場所にあるのを見たことがありませんでした。大きいものや小さいもの、仏教のものや神道のもの、美しいもの、恐ろしいもの、楽しいもの、悲しいもの…。もちろん、海にすっくと立つ、巨大な赤い鳥居をもった厳島神社を何にもまして覚えています。残念だったことは、到着したとき急いでいたために、幸福の願かけができなかったことです。

 しかし、気持ちがあふれて涙がでたのは、原爆資料館と平和記念公園でした。1945年の広島市の悲しみを感じました。原爆によって、どれほどたくさんの人々が体を、さらには魂を、バラバラに引き裂かれたのでしょう。一般の人々にとって、愛する者や知人や家庭を失うことはどれほどつらいことだったでしょう。そして、それら全体としての国にしてもそうです。戦争は悲惨なものです。私は私の子どもが、この戦争という醜い魔物を絶対に見なくてすむように信じたいと思います。そして、この、完全に破壊された街に戻ってきて、灰から再び街をつくりあげた日本の人々の勇気をたたえます。

 このような悲劇が、平時ではありましたが、旧ソ連に起こったことはご存じと思います。1985年のチェルノブイリ事故は、多くの痛みと喪失をベラルーシとウクライナの人々にもたらしました。多くの人が病気になり、亡くなり、放射能に汚染された場所から移住しなければなりませんでした。ひどいものでした。私はまだ7歳で、私の両親はすばやく私をゴメリから連れだし、ウズベキスタンの祖母のところに送りました。そこで私は両親と離れて1年を過ごすことになりました。そして、多くの悲しみと病気が起こりました。あれ以来、ベラルーシには小児の甲状腺ガンと白血病が目立っています。

 3番目の旅は東京でした。3日間、1人で行ってきたのです。友人が東京の印象について尋ねるなら、「22世紀ね」と答えるでしょう。東京は4次元の街のようでした。上から下、左から右、前から後ろ、そして過去から未来。私は浅草寺と明治神宮を訪れ、皇居と東御苑内を散歩しました。ぜひとも歌舞伎座に行ってみたかったのですが、改築のために閉鎖されており、銀座を歩きながら外観を眺めるだけでした。それから、能楽堂での公演も観ました。とても特別な経験でした。

 ほかの好奇心の強い観光客と同様に、私も秋葉原に行ってみました。そこでは、本当にたくさんの機器類の革新を見ることができ、それから渋谷の“クレイジーな”「cat street」では妹のアーニャにとても独創的なお土産を買いました。けれど、最も印象深かったのはお台場です。お台場では日本科学未来館に行きました。そして、もし東京が私にとって22世紀だったというのなら、未来館は、すでに23世紀です。アシモ、ハルックス(月着陸ロボット)、遺伝子医療、バーチャル手術、見えなくするマント…、まるでフィクション小説のようです。いつの日か私の息子が、私が見たのと同じものを見られたらいいと、どんなに望んでいることでしょう!

 しかし、最も美しいのは、東京の鳥瞰的(ちょうかんてき)な景色でしょう。私は東京都庁の展望室に2回行きました。朝と夜。その景色は本当に息をのむものでした。昼間の地平線まで続く家々、そして夜の灯り。巨大な高層ビル。まるでジャングルに広がる木々の間に道路と車という小さな小川が流れているようです。そして、これらすべては山々に縁取られているのです。なんてすばらしいのでしょう!

 そして、東京で最も困難だったことは何か、想像してみてください。それは地下でした。が、違います、地下の中ではないのです。中では、すべてが非常にすばらしく組織だっており、路線の乗り換えの図表も指針もはっきりしていました。最も困難だったのは、駅の中に入って、出ていくことだったのです。鳥居さんに手配していただいて(予約ありがとうございました!)、私は新宿駅から遠くないホテルに宿泊しました。そして初日、私はどうしたら丸ノ内線にたどりつけるのか、20分間にらめっこしていました。ホテルは南口近くにあり、丸ノ内線は反対側だったからです。しかし、3日目の終わりには宿に帰る道を見つけるのに5〜7分ですむようになりました。東京は、非常によく組織された街で、旅行者のための英語の地図や標識がたくさんあり、ほぼどのような対象でも、簡単に見つけられると思います。そして、人々はみな親切で、私が頼った人はみな私を助けようとしてくれました。

 私の日本での生活は続きます。到着から4カ月が過ぎ、まだ2カ月が残っています。私は日本での生活のすべての日々を楽しみ、心の中の日本のかけらをベラルーシへ持ち帰りたいと思っています。

 紙面をお借りして、ここでの私のお世話をしてくださっている方々にお礼を述べたいと思います。

 菅谷先生:ベラルーシのためにしてくださったことすべてに対して。私の国の人々を治療し、ベラルーシの人たちを支援するチェルノブイリ医療基金を組織してくださいました。おかげで私も来ることができました。

 北和田さん:私を支え、彼女なしでは絶対に知ることができなかったであろう日本の生活を見せてくださいました。そして、私の到着直前に亡くなられた彼女のご主人にも感謝しています。

 千原さん:生活面や経済面で問題なく、私が日本で暮らせるように手配してくださいました。

 中村先生:私の研究の指導者であり、日本でどのように暮らし、働くかを教えてくださいました。

 鳥居さん:日本での研修にあたり、必要なすべての書類を準備してくださいました。また、東京での滞在を手配してくださいました。

 親愛なるすみれ:ベラルーシに来たことがあり、私と文通し、訪ねてきてくれました。彼女とは友達です。

 広間先生をはじめとするすべてのNICUの先生方:私が興味を持つすべての事柄を説明し、見せてくださいます。

 長野県立こども病院のすべて:私が研修を受ける機会を与えてくださいました。

 すべての日本の方々:本当に親切にしてくださいます。




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