Chernobyl Medical Fund Newsletter (5) チェルノブイリ雑感 「話しても気休めにしかなりません」
ベラルーシ大学国際関係学部4年生のニコライ君は、つい先日覚えたばかりの日本語でぽつりと言いました。
ミンスクで生活していても、最近はチェルノブイリに関する情報がほとんど入ってきません。ベラルーシの新聞やテレビ・ラジオによる事故後の報道も影を潜めつつあります。
不思議だなあと思い、当地の何人かに尋ねてみました。彼らの話を総合すると、国は国民がチェルノブイリについて多くを語るのを嫌っている。さらに、政府筋から公表される情報以外には種々の報道を流すことを禁止しているとのことであります。大変びっくりしましたが、これでようやく沈黙の理由がわかりました。
依然として低迷状態を続ける経済不況のもとでは、国民がチェルノブイリ被害の現状をいくら声高に叫んでも、国家としての対策を講じることができないのです。自国の問題を自ら解決できないとは、何と悲しく辛いことだろうかと心が痛みます。残念なことではありますが、ベラルーシでは、チェルノブイリが抱える諸問題よりも、経済の再建、ロシアとの統合問題、マフィアや凶悪犯罪等の対策の方が優先すると言われています。
チェルノブイリ事故後の昨今の実態については、やはり汚染地に出向き、そこに住み続ける人々と接しないかぎりは、正しく把握できなくなってきました。私はこのような現実を踏まえながら、この夏から秋にかけて、ゴメリ州などの汚染地における術後小児らの巡回診療や、フィールドワークとしての甲状腺検診を実施しようと、目下計画を立てているところです。
いずれにしましても、長期化する経済不況とチェルノブイリの狭間で揺れ動いている今日この頃の私です。
………………*……………… 早朝より澄みきった爽やかな青空が広がる。長かった北国の厳しい冬の寒さを耐え抜いた樹木の芽吹きが目にしみる。ようやく本格的な春が訪れてきた。この国の最も美しい季節が始まったのである。
アパート近くの公園に出かけると、子ども連れの家族や恋人同士のカップルで賑わっていた。綿菓子を買おうと長蛇の列。風船を手に嬉々とする幼児たち。子どもの写真撮影に一生懸命な夫婦。シャシュリック(串刺しの焼き肉)を待つ人々の行列。店の裏では、おじさんが必死になって肉を焼いている。“今日は書き入れ時だよ”といった顔をして。
グランドでは、高校生たちのサッカーゲームが繰り広げられている。大声をはりあげて応援する生徒や教師たち。
スカリン通りを歩く。6車線の舗装道路をたくさんの車が往来する。この中には、ダーチャ(郊外にある畑つきの家)へ出掛ける車も多いことだろう。そう言えば、2日前、ビクター医師も“26日は母親とジャガイモの植え付けをする”と話していた。
メインストリート両側の広い歩道には、パラソルを備えたイスとテーブルだけの急ごしらえの飲食場が並ぶ。人々は、ジュースやビール、そしてアイスクリームを口にしながら談笑に花が咲く。
勝利広場まで足をのばした。しかしそこにはほとんど人影もない。チェルノブイリのための集会やデモ行進の人々の姿も全く見られない。傍らの公園の広場では、ラウドスピーカーから流れるディスコの曲にあわせて、若い男女たちが激しく踊っている。
スヴィスラチ川のむこうに広がる市街地。若緑に包まれたその光景はどこまでも美しく、時折吹き抜ける風も爽やかで心地よい。
私は何か不思議な気分に襲われた。
“われわれはチェルノブイリのことをあまりに言い立てすぎるのかな”
この国の人々はあの悲しみを早く忘れようとしているのか…。暗い気持ちに落ち込む自分たちを、つとめて明るく、そして奮い立たせようとしているのか…。ただ少なくとも、チェルノブイリ事故のことを風化させようなどとは決して思っていないと信じたい!
しかし、私にはよくわからない。
夕方、ゲンナジー医師に誘われ、国立音楽ホールへ出かけた。恒例のチェルノブイリ犠牲者鎮魂のためのコンサート、“モーツアルトのレクイエム”を聴いた。会場は満員であった。帰り道、ゲンは私の耳元でそっと呟いた。「今日、政府は反政府系のチェルノブイリ集会やデモを厳しく規制した」と。
日本も同じだが、世の中何が何だかよくわからないと考え込みながら、家路への歩を早めた。ただ一方で、汚染地でのチェルノブイリデーはどうであったのかなあという懸念が頭の中を駆けめぐっていた。
“チェルノブイリ”はただ単に悲しみの物語としてとらえるのではなく、この地に生きる人々に、将来への希望と励みを産み出す形で関わっていくべきであろう。12回目のチェルノブイリ記念日を目のあたりにし、私はますますその思いを深くした。
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