Chernobyl Medical Fund Newsletter
 (5)


念願のベラルーシ医療活動に同行して

菅谷 慎祐  

 

 この度ありがたくも、チェルノブイリ医療基金のNPO活動にお手伝いとして参加させていただきましたことを まず菅谷昭医師はじめお世話になった方々、関係者の方々に厚く御礼申し上げます。
 僕がそもそもチェルノブイリでの医療活動に興味を持ち、実際に行ってみたいと思っていたのが、大学2年のころだったと思います。そのころから昭叔父さんに打診をしていたのですが、まだ学年的に医学的知識が足りないことや、昨年は叔父さんの松本市長当選もあり、ベラルーシ行きがかなわず、4年の年月を経て今回やっと念願が叶ったわけです。医療者としての役には立てませんが、荷物持ちや記録・映像係など、できることがあればなんでもやらせていただきたいと思っていました。
【感動と親愛と敬意の念・ベラルーシ!】
 出発前の僕のベラルーシに対するイメージは、雪に閉ざされた極寒の土地で、そこに住む人々は厳しい自然の中で、そして厳しい社会・政治的状況の中でひたすら辛抱強くじっと耐え抜いている。そして、医療に対しても同じように、チェルノブイリ事故による後遺症や子どもや孫の発病の不安を抱えながら日々暮らしているというもので、失礼かもしれないのですが、国全体に対して、どちらかというとネガティブなものでした。今回の医療支援活動を通してイメージ通りである部分も多々感じましたが、それに勝る感動と親愛と敬意の念をベラルーシから持ち帰ることができたことは、何よりの収穫であったと思っています。
ではベラルーシの何がそれほど素晴らしかったかと言いますと、それはずばり「人」だと思います。ゾラーチカの皆さん、検診に来られたお年寄り・お母さん・ちびちゃん、市長さんはじめ職員の方々、病院の職員の方々・・・みなさんとても前向きで真摯で心の温かい「人」でした。僕が当初抱いていた人々の暗いイメージが幻想であったことに気づいたわけです。特に、今回検診を手伝うために、はるばるミンスクやゴメリから駆けつけてくださったゲンナジー先生・タッチヒン先生は、医師としての情熱感にあふれ、人々を苦しみから救いたいという強い意志を持ち、なおかつジョークが好きで酒好きで、人間味あふれる素晴らしい方たちだと思います。僕は今、三重大学とその関連病院でポリクリという病院実習をしている最中なのですが、そこでも情熱や責任感をもって一生懸命やっておられる素晴らしい先生方にお会いすることができ、また大いに影響を受けました。これは日本とベラルーシの単純な比較論ではないので表現するのが難しいのですが、ベラルーシのこの2人の先生方の“眼”を見るとき、「自分たちの国が犯してしまった大きな罪は、自分たちの力で償わなければならない」と思っている分、医師としての仕事に対してより大きな責任感を持っているのだと強く感じました。
モーズリでの検診が終わった1日目の夜、2人の先生とゲンナジー先生の息子のアントン(ミンスク医科大学1年)と中塚君と僕の5人でウォッカを酌み交わしながら、僕らの訪問を大変歓迎して頂きました。もうここではみんなかなり出来上がっていたのでオフレコな話で盛り上がったり、昭叔父との出会いから今までのことを熱く語ってもらったりと、まるで旧友との再会の宴!かのように飲み語りました。そして、アントンとはベラルーシと日本の医学部や医療の話をお互いしたりして、これからもずっとお互い刺激し合い、交流し続けていこうと固く約束を交わし(もちろんウォッカで)、その夜を終えました。
【モーズリでの甲状腺検診】
 本当にたくさんの住民の方が訪れました。7月17日は、午前8時半から診察を開始しましたが、その1時間もしくはそれ以上前から診察室の前に人が集まっていました。今回診察室となった部屋は、ゾーラチカの建物が改築されたため、以前と変わってしまっていて、8畳ほどの広さでした。一番奥に診察ベッドを置いて、入り口近くには机を置いて受付としました。こじんまりとした部屋ですが、医師は5人そして日本から持ち込んだ最新式のポータブルエコーをもって、診察を待ってくださっている方々に応えようと気合が入ります。学生のぼくらは、診察がスムーズに行くように誘導したり、ビデオやカメラで診察風景を撮ったりする仕事をいただきました。しかし、英語の通じない国で「誘導する」ということがいかに大変なことかを知ったわけです。ソファーに座って待っている方を、順番がきたら診察ベッドの横に誘導したらいいわけですが、どうしたものか・・・。橋本先生がさっきベッドに誘導するときに確かパジョルスタ(どうぞ?)と言っていたのを思い出し、思い切ってジェスチャーもつけて声を掛けてみました「パジョルスタ!」すると、おばあちゃんが笑顔でこちらに来てくれたじゃないですか!このときは素直に「やった、通じた」という思いでうれしかったです。検診に訪れるおばあちゃんやお母さんは、その多くが小さな子どもを一緒に連れてきていました。そして、エコーのときも真っ先に子どもをベッドに寝かせます。検診が終わると「子どもは大丈夫でしたか?」と、とても心配そうに何度も聞いてきます。「ノルマーニャ(正常ですよ)」と橋本先生や菅谷医師が言うとほっと肩をなでおろし、笑顔でお礼を言って帰っていくのです。チェルノブイリ原発事故から20年が経とうとしている今日でも、住民の病気に対する不安は消えていないのだと、あらためて痛感しました。また、この国では気軽に病院に行けるほど家計が豊かではない家庭はたくさんあるそうです。ですから、甲状腺の検診にもかかわらず、「最近胸が苦しいんです」とか、「薬を処方してほしい」とここぞとばかりに私たちに求めてきます。当然、その場ではどうすることもできないので、「かかりつけの病院で診てもらってください」と言って帰ってもらうのですが、この国の経済や医療の厳しい現実の一面を見ました。
僕らはときどき診察の合間に外に出て、診察を待つ人たちの写真を撮りに行くのですが、いつになっても40〜50人の方が並んでいるのです。ほかの人は受付だけ済ませていったん帰って、適当な時間が来たらやってくるので、人だかりは一向に少なくなりません。診察を開始してから4時間ほどたったころ、ゲンナジー先生たちがそろそろ昼ごはんを食べようと言い出しました。「いやいや、また大勢の人がそとで待っていますよ」と言おうとしたのですが、その前に叔父が教えてくれました。「ベラルーシではどんなに急いでいても昼ごはんはみんなでしっかりとるんだよ。そして、人々もその間待っていることは当たり前と思って待っているんだよ」。 なるほど、確かにこの国ではどんなに列が並んでいて遅かろうと、いらいらした顔ひとつ見せずに待っている風景をよく見かけます。もともと社会主義のソ連の一部であり、サービスや効率といったことはそもそも求めてこない社会に育った人には、待つことや手際が悪いことに対して文句を言ったって仕方ないという考えがあるのでしょうか。日本だったらば、ちんたらと作業していたら「急いでいるんだからもう少し手際よくやってくれないか」などと言ったり、そうでなくとも態度にイライラが表れてしまうことも少なくないと思います。
30分で食事を終え、また診察室に向かいます。小川さんがチェックした受付表には、まだ150人の待ちがありました。エコー1台でやっていてはいつになっても終わりそうにないから、古いエコーも使って2台で進めていった方がいいのではないかと菅谷医師が言いました。僕らもエコーがもう1台余分にあるなら、当然そうすべきだろうと思いました。しかし、ゲンナジー先生・タチヒン先生はこのままで行こうといいます。仕方ありません、とりあえず今までのままで診察を開始しました。開始から30分後、ゲンナジー先生が、やはりエコーを2台にして診察していこうと言い出しました。結局、診察室は少し窮屈になってしまいましたが、診察効率は明らかによくなったわけです。いまさらゲンナジー先生が言い出した理由はわかりませんでしたが、今となってはそれを知るすべもありません。もしかして、深い意味があったのかもしれません。ささいなことですが、やはり僕らの常識としている考え方がこちらの国では通じないことが多々あるのだと感じたことは事実です。それを思ったとき、叔父がベラルーシで5年半もの間活動してこられたことの大変さを垣間見たような気がしました。「あせらず、気負わず、自分のペースで」といつも話していましたが、逆にそのように気持ちを切り替えないと、長期にわたる医療活動は難しかったのではないかと思いました。
午後4時半ごろ、せっかくの休日を投げ打って、ミンスクやゴメリから駆けつけてくださったゲンナジー先生、タチヒン先生、そしてアントンを見送りました。彼らと過ごした時間は2日間弱ほどでしたが、僕は2人の先生から、医師として、そして人間として大切なものを確かに教わりました。それは「情熱」と「人間味」です。「情熱」はあえて説明するまでもありませんが、「人間味」というのは、接していて感じる温かみやユーモアやゆとりのことであり、接していて安心できる雰囲気のことでした。そんなものは一朝一夕には身につかないでしょうが、忙しくなっても心にゆとりをもって生きていきたいと思います。
 このモーズリ滞在中に、機会があればチェルノブイリ30キロ地帯に連れて行ってもらえると聞いていたので楽しみにしていたのですが、結局時間が取れず、行くことができませんでした。次にベラルーシに行く機会があったらぜひ行ってみたいと思います。そして、危険を知りつつもそこに住んでいる方々から直接話を聞いてみたいのです。聞くところによると、幼い子どものいる家族も中にはいるそうですが、子どもたちが病気にかかる危険性があるのを知りながら、なおもその地に住み続けようとするのはなぜなのでしょうか?また、村人もほとんどが移住してしまい、店などもなくなってしまっているなかで 仕事はどうしてるのだろうか・・などと疑問は尽きません。
【希望をもって生きる!】
 ゴメリはモーズリとは違い大きな都市で、ビルも車も人も多く、さすが人口50万人の都市だと思いました。また、歴史を感じさせる古い建物も多く、古きよき時代の名残りもうかがえました。レーニン像の近くのレストランで昼食をとり、その後市場を見に行きました。僕は旅行をするときは、その町の市場を見に行くことにしているのです。それは市場がその町や国の活気を表していると思うからですが、単純に言えば、いろんな物や人があふれていて見ていて飽きないからなんです。ゴメリの市場は確かに物は種類も数もたくさんありました。しかし、活気はというと思ったよりなかったかな、というのが正直な感想です。旧ソ連から独立してベラルーシ共和国となっても、まだまだ西側の国々に比べて金回りがよくないということでしょうか。
 その日の午後6時ごろから、アーニャ、スベトラーナ、ターニャ、カーチャの4人と健康相談兼近況報告会を開きました。彼女たちは菅谷医師の患者さんで、彼が日本に帰ってきてからも、ベラルーシに行くときは会って話して、健康状態を継続してfollow-upしている方たちです。僕も本で彼女たちのことは知っていたので、初対面でしたが初めて会った気がしませんでした。会が始まり一通り挨拶と自己紹介が終わり、近況報告をしてもらいました。皆さん健康面では特に問題なく生活しておられるとのことで安心しました。ただ、スベトラーナはチロキシンを服用していて赤ちゃんに母乳を上げてもいいのかどうかを心配そうに菅谷先生に尋ねていました。日本では薬の種類によっては母乳をあげてもいいらしいのですが、ベラルーシでは万が一の安全を考えて、人工乳を勧めているそうです。これはそれぞれの国の医療者の考え方の違いなので、日本ではOKだから母乳をあげていいよ、とはなりません。受け持ちの先生とよく相談してくださいと伝えていました。また、アーニャは準医師と助産師の資格を取るために勉強し、夏の休暇返上で臨床で実習。ターニャは高校卒業後、浪人した後、今年ゴメリ医科大学に見事合格し、今は一生懸命医学を勉強しているとのこと。カーチャは今までオペ場の看護師を4年してきたが、今年の秋に医科大学を受験するために追い上げの勉強をしているとのことでした。
皆さんは、原発事故によって甲状腺に取り返しのつかない傷を負いました。そして、今もなお治療を受けながらの生活をしています。しかし、そのハンディを感じさせないほど生き生きとして、希望をもって生きている印象を受けました。そして、何よりも彼女たちは一生治らない傷を負った患者でもあるのです。そのつらさを知っている彼女たちは、きっと患者さんの痛みが本当にわかる医療者になるだろうと思いました。そして、ベラルーシの医療もきっと素晴らしいものになっていくでしょう。僕は医学部に入って早5年が経ちました。日々のポリクリでは「患者さんの立場に立って」物事を考えようとはしています。しかし、それができているかは、患者さんに聞かないとわかりません。僕は彼女たちを含め、ベラルーシの医療者から学ぶべきことはたくさんあると思います。彼らも日本の医療から学びたいことがあるかもしれません。ですから、これをきっかけにお互い先の長い付き合いができたらいいと思います。
【国民から信頼される医療】
 さすが人口200万の都市です。ゴメリに比べて人も車も建物も多く、また町全体がきれいで整っている印象を受けました。聞けば、この町はドイツとロシアの戦争で軍隊の通り道だったらしく、第2次大戦のときに多くが破壊されてしまったそうです。戦後、町全体を立て直したので建物や道路がきれいで整っているというわけです。ただ、ベラルーシの現大統領は独裁に近いスタイルで政策を進めているため、道路の名前を勝手に変えたり、意味のない政策を施行したりと大変だそうです。僕らが日本から持ち込んだエコーも、入国の際にひともんちゃくありまして、結論から言えば、結構なエコー持込料を取られたわけです。しかし、ミンスク市を見る限り独裁制を感じさせることはなく、人はどんな状況になっても生きていけるものだと、人間の図太さを見た気がしました。同じ独裁制の北朝鮮の人民も意外にたくましく生きているのかもしれないですね。
 昼食を食べた後、ミンスク第1病院でユーリー・デミチク先生と面会しました。先生はまじめで、温和でとても信頼感のある方で、チェルノブイリ原発事故の影響による甲状腺疾患についての研究を熱心にされている世界的にも有名な方です。その先生が、学会でまだ発表していない論文のデータを、Dr.菅谷だから特別にと言って見せていただきました。そのデータによると、甲状腺疾患の罹患率は、原発事故から20年経った今、事故以前のそれに近いくらいまで落ち着いてきているということでした。また、甲状腺にしこりが触れた人は事故後確かに増加したが、甲状腺癌の占める割合は低いものであり、子どもの発生率も減ってきているということです。そしてデミチク先生が強調しておられたことは、この甲状腺疾患全体の罹患率減少は、事故後のベラルーシの医療による治療効果が大いに表れているということでした。確かに、事故後、政府の命令で病院にかん口令が敷かれ、国民には病気の真実が知らされることなく、それがために多くの人が命を落とし、また、今も多くの国民が病気で苦しんでいることは事実です。そして、それをきっかけにベラルーシの医療は国民からの信頼を失ってしまったのでしょう。しかし、「国民を病気から救っていきたい、それにはベラルーシの医療が率先していくのだ」という先生の強い意欲を感じ、僕は心強く思いました。
【情熱と責任感の医療支援】
 今回の医療支援を通じて多くの人とかかわらせていただきましたが、皆さん本当に情熱と責任感をもって、医療者としての仕事をやっておられました(少なくとも僕がお会いしたときはそう感じました)。そして、医療者だけではなく、行政の担当の方や市長さんまでもが医療をより良くすることに対して大変関心を持っておられました。それはこの国全体が「自分の国のことは自分たちで責任持ってやっていく」という方向に向きつつあるということではないでしょうか。そして、その中には少なからず菅谷医師のこれまでの医療支援によるきっかけもあるでしょう。そして、その流れが大きくなってきたとき、ベラルーシは医療のみならず国全体がもっと素晴らしくなっていくのではないかとひそかに期待しています。
 いま日本に帰ってきて、以前のようにまた忙しい毎日が続いています。そしてその中で、ベラルーシでのあれやこれやもひと夏の思い出になってしまうかもしれません。しかし、ベラルーシで出会った皆さんのことは決して忘れません。そしてきっと再びかの地を踏みたいと思います。通訳として本当にハードスケジュールの中付き添ってくださった小川さん、僕らに毎日のように町を案内して回ってくれたドライバーのサーシャさん、本当にありがとうございました。
 最後になりましたが、改めて菅谷医師はじめお世話になりました方々、並びに他の関係者や多くの支援者の方々にこの場をお借りしまして心から感謝いたします。ありがとうございました。   



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