Chernobyl Medical Fund Newsletter (3)
NHK「プロジェクトX」 取材リポート

ディレクター 山本 出

 ベラルーシ取材での印象的な出来事、人たち、言葉
<空港での出来事>

 イラクでの戦争が始まってしまったため、急遽1日遅らせての出発となり、ベラルーシの首都、ミンスクの空港に到着したのは、3月23日のことだった。
 空港の税関で、撮影機材が多いため、案の定、厳重なチェックを受ける。これは海外での取材ではどこの国でもよくあること、特に気にしなかったが、係員の人が、僕のあらゆる財布を開け、ドル札を一枚ずつ数えはじめたところぐらいから、ちょっといつもとは様子が違うぞと思い始めた。お金を数え初めて10分後、ついに申告額より1ドル多く所持していることが判明すると、「なぜ正しく申告しない?」と言い、1人別室の小部屋に連れて行かれることになった。
 「なぜこんなにドルを持っているのか」という事を何度も尋ねられる。同行の2人(カメラマンと照明マン)の宿泊代や食費なども持っているので額は大きい。そのことを説明しても納得しない様子。
 そしてついにこう言った。「お前はテロリストではないのか」。本気なのか冗談なのか分からないような質問。しかし係官の顔はあくまでもまじめだ。これは大変だと思い、伝家の宝刀とも言うべき一枚の手紙を差し出す。それは、在日ベラルーシ大使館のニコライさんがロシア語で書いてくださったもの。内容は、我々がこの国で医療活動を行った菅谷さんの事を番組にするためにやってきた撮影スタッフであること、そして菅谷さんはこの国最高の勲章を受章した人だということが書かれている(はず、だが全く読めません)。
 この手紙を読むと明らかに表情に変化が表れ、無罪放免となった。係官は、「イラク戦争が始まったこの時期に、お金をたくさん持っているから心配したのだ」と最後は笑顔で話した。
 実はこの手紙をニコライさんに書いてもらった方がいいというお知恵を頂いたのは菅谷さんから。ニコライさんは、かつてベラルーシで菅谷さんの通訳をなさっていたことがある。そんな関係だから書いていただけた特別な手紙。お2人に感謝しつつ空港を出ました。

<ミンスク国立ガンセンターのユーリー・デミドチク医師>
 取材はミンスク国立ガンセンターから始まった。こちらでは、何人かの医師にお話を伺ったが、このセンターのトップの1人、ユーリーさんの言葉も印象深いものだった。「外科医というのはプライドの高い人種です。だからほかの人をほめるということは普通しないものです。でも、菅谷さんのことは、私たちは心から認めます」ユーリーさんの気持が伝わってくる一言だった。自分たちが補うべきところを認め、相手を讃える。なかなか出来ることではない。その一言に菅谷さんのもたらしたものの大きさを感じると同時に、菅谷さんを受け入れたベラルーシの人たちの優しさと暖かさを感じた。

<コーディネーターの小川良子さん>
 今回の番組の取材を、コーディネートしてくださったのが、小川良子さん。我々が行く前から事前に取材先に電話をしてくださったりしていだだき、現地ではずっとおつきあいいただいた。こちらもかつてから菅谷さんの活動を支えておられる方。そのため、今回の取材先の方々とは面識もあり、正直言ってこれほどスムースに撮影が出来たことは、海外での取材であまりないほどだった。また非常に興味深かったのは、10日間以上行動を共にしている間にぽつりぽつりと伺った、ソ連時代からこちらで暮らす小川さんがこれまで体験した様々なお話。決して日本で何気なく暮らす我々には想像のつかない経験をされている。
 また、小川さんの人間性にスタッフ皆どんどんと惹かれていった。特に僕が惹かれたのは、考え方のバランスのよさ。チェルノブイリ事故に対する見方、現在のベラルーシの政治や社会に対する見方、そして人間に対する見方。どれも冷静で客観的で、それでいてヒューマニズムに溢れ、ニヒリスティックにならない。どれほどか今回の取材の方向性をクリアーにしていただいたことか。どのようにして小川さんのこの洞察力は培われたのか。小川さんはどのように生きてこられたのか。小川さんはあまり多くは語らない。しかし実に興味は尽きなかった。

<チェチェルスクのタチアナ・ブジリナさん>
 菅谷さんが初めてベラルーシを訪れた地、ゴメリ州のチェチェルスクにも取材に伺った。
 タチアナさんは、そのチェチェルスクで日本語に訳すと「衛生学・疫学放射線学センター」というところに勤める技術者。現地調査をはじめた91年から菅谷さんのことをご存知である。今回の取材の大きな目的は、現在のチェチェルスクの状況をお伺いすること、そして当時の菅谷さんのことをお伺いすることの2つだった。
 タチアナさんは現地の土壌や食物がどの程度放射能汚染されているかを調査し続けている。その調査結果を話すタチアナさんの表情は決して明るくない。牛乳やキノコなどの放射性物質の含有量の調査結果は、通常値の数百倍を示すものもある。17年たった今も、状況は好転していないことにいらだちを感じているようでもあった。
 タチアナさんのもう1つの憂鬱は、そうした状況にも係わらず、政府が次第に、汚染地での作物作りや牧畜を許可しはじめていること。このようなことで住民の健康は守れるのか。タチアナさんの不安は以前にも増しているようだった。
 ゴメリ州内のチェチェルスク近辺は、廃村となった村も多い。道を行くと道ばた至る所に、廃村を示す看板が目に付き、放射性物質がここにあるのだということを改めて思い出させる。菅谷さんもここにやってこられて活動をしていく中で、子供たちの甲状腺ガンをはじめ、事故による事態の深刻さを痛感したのだろうと言うことが実感できた。
 タチアナさんは、その当時の菅谷さんを次のように表現した。「菅谷さんは、調査を重ねるたび、その瞳に寂しさを浮かべるようになった」。

<ゴメリ州立腫瘍病院のウラジミル・タッチヒン医師>
 今回の番組でご紹介できずたいへん残念だった方のお1人が、この方。ゴメリでの菅谷さんの活動の拠点となったこの病院で、菅谷さんの手術技術を学んだ医師たちのリーダーである。
 タッチヒンさんのパーソナリティとして僕がたいへん興味を持ったのは、そのおおらかさと前向きさ。
 ベラルーシという国の国民性の1つとして、非常にシャイな人が多いというのが僕の印象であるが、これが時には、新しいものや自分たちと違うものを受け入れることに苦労するという結果につながる可能性があるように推測されたが、タッチヒンさんは、そうした心配が全くない人で、ベラルーシで出会った中では、突出してオープンマインドの人だった。
 学べるものは全て学ぼうとする彼の積極的姿勢は、そのまま彼の医師としての信念の強さの現れだと感じた。その明るさは患者さんたちの前でも当然変わらず、辛いことが多い病室において、それは患者さんたちにとって何よりの救いだと思った。
 そんなタッチヒンさんがおっしゃった、「今でも我々は、菅谷さんがよく使った言葉を冗談に使います。『乾杯』とか『ありがとう』とかいろいろな言葉を日本語で話しますよ」という言葉は、終始前向きなタッチヒンさんならではの非常に象徴的な言葉だった。タッチヒンさんがゴメリのこの病院のリーダーであることの意味は、計り知れなく大きいと思う。

<モズイリのオルジェホスキーさん、チェルニショーワさん>
 モズイリは、ゴメリ州内の町、チェルノブイリから100km圏内。ここで、2人の医師から事故後17年たった被災地の子供たちの現状を伺った。
 モズイリ市立子供病院のオルジェホスキーさんと市立第一病院のチェルニショーワさん。現地で子供たちを見続けているお2人の意見は次の点で完全に一致している。
1.甲状腺ガンなど初期に起こった病気は、その後は増加はしていない。しかし劇的に減ったわけでもない。
2.新たな問題として一番大きいのは、免疫不全。あらゆる感染に対する抵抗力が落ちているということ。
 その結果引き起こされる病気は多岐に渡る。風邪を引きやすい(あるいは軽い風邪なのに何週間にも渡って長引く)、気管支炎を起こす、疲れやすい、中には耳鼻炎を慢性的に引き起こすことにもつながっているのではないかと指摘する。さらにチェルニショーワさんは、がんに対する抵抗力の低下も懸念されると指摘した。ただ、「現地の医師として現状に対してオプティミスティックであろうと思っている」というオルジェホスキーさんの一言は、深い意味が込められていると感じた。
 また、門外漢の僕には、少し唐突な気がしたが、チェルニショーワさんのお話の中に、「幼児の中に糖尿病が増えている」という指摘も注目すべきかと感じた。
 ただもう一方で、お2人の指摘で非常に印象的だったのは、現在の子供たちに与えている影響は、決してチェルノブイリだけではないのだという点。ベラルーシという国が抱えている経済的問題(例えば経済状況が悪化しているためバランスの取れた食事と言った配慮をする余裕が無くなっていることなど)、社会的問題、あるいはアルコールの問題、環境問題等々、これらは、常に関係しあい、複雑に絡み合っていて、どれが問題であって他は問題ではないと特定できるものではない。どれもが子供たちに影響を及ぼしていて、どれもが考えて行かなくてはならない問題だという。現地で活動を続けながら、チェルノブイリに対して過剰にヒステリックにならず、努めて客観的なスタンスを維持しているお2人。それは医師としての真摯な姿勢の現れだと強く感じた。

<廃村での出来事>
 取材もおしまいの頃、モズイリ市からさらにチェルノブイリに近い地区に行き、通常は入ることの出来ない廃村となった村を訪れた。
 2つのことがたいへん気になった。1つは、小川さんや僕以外のスタッフが感じたという、口の中の金属の味である。銀紙をかんでしまったときのようなあの感じだという。僕はたいへん鈍感に出来ているので分からなかったが、これは、あとで聞いたところによると、まさに放射能を強く感じたときの感触だそうである。放射能は見えない。しかし体は確かにそれを受けている。その恐ろしさを実感し、ぞっとした。
 もう1つは、案内してくださった町役場の担当の方の言葉である。それは僕が、その方に現在この土地がどのくらい汚染されているのか、以前とどのくらい変化したのかと尋ねたときの返事である。「そうしたことは国が調べているはずだが、我々には全く知らされない」そうつぶやいた顔には、無力感がにじみ出ていた。
 最後に
 これはどうしても書かせて頂かなくてはなりませんが、これほど短期間で、これほど充実した取材はそうできるものではありません。ひとえに、コーディネーターをつとめていただき、入念な準備をしていただいた小川良子さんはじめ、取材先の方々の協力のおかげです。
そして、そうした方々の共通の思いは、「菅谷さんのためだったら少々の無理をしてでも協力する!」というものでした。
 これは誇張でも何でもなく、まぎれもない事実です。
関わった全ての方々に感謝申し上げます。ありがとうございました。



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