Chernobyl Medical Fund Newsletter
 (6)


チェルノブイリ原子力発電所事故が
住民に与えた心理的影響
 

慶応大医学部
高野 公徳

 1986年4月26日、当時の旧ソ連邦(現ウクライナ)にあるチェルノブイリ原子炉4号炉が爆発炎上し、人類史上稀に見る大量の放射性物質が大気中に放出された。これら放射性物質による汚染は、主として現在のベラルーシ、ロシア共和国及びウクライナの周辺3ヶ国に集中して起こった。
 このような大災害においては小児の甲状腺がんの増加のような直接的な被害だけでなく、被災体験やその後の環境変化がもたらす心的外傷を無視することはできない。
 ベラルーシ共和国保健省の報告によれば、社会的・放射能生態学的ストレスが適応症候群のあらゆるタイプを増加させ、また個人的なストレスが、社会心理的に固定化されて外傷後ストレス障害(PTSD)として現れるなど、放射能の影響を受けた地域の人口の3分の1以上が何らかの精神的障害をもっているということであった。
 本報告は、チェルノブイリ事故で放射能の影響を受けた住民の現在の心理的状態を知るために、高度汚染州ゴメリ州モーズリ市で行われた甲状腺がん検診を訪れた住民394名のうち300名を対象に行われた調査に基づくものである。

調査地域
 モーズリ市はベラルーシ共和国ゴメリ州の第2の都市である。チェルノブイリ原子力発電所から北西に90km、事故当時の風向きにより事故の影響を最も受け、特に小児、青年層において甲状腺がんの著明な増加が認められており、近隣の村では今もなお深刻な汚染状態が続いている。

調査対象
 チェルノブイリ医療基金の菅谷昭先生が実施された甲状腺がん検診の受診患者300名を対象に調査を行い、そのうち281名から有効回答を得ることができた。事故当時の居住区については281名中、244名がモーズリ市に、4名がゴメリ市に、5名がナロビア市に、1名がエルスク市に、27名がその他の地域に在住していた。

調査方法
 調査用紙(表1)は、年齢、性別、被災時の居住地域および現在の心身の状態を問う22項目からなる。なお調査は検診が行われた2002年7月21、22日の2日間に実施した。
調査用紙の回答に対して数量化を行い、心的外傷後ストレス障害(PTSD:Post Traumatic Stress Disorder)の高危険者をスクリーニングする目的で全22項目の総得点を、調査対象におけるチェルノブイリ原子力発電所事故が与えた心理的影響を知るために各項目ごとの平均点の算出を行った。また、あわせて年齢、性別で分けて比較し、上記結果との関係を調査した。

 
 各質問への回答に応じて得点(「ない」に1点、「たまにある」に2点、「たびたびある」に3点、「いつもある」に4点)を与えて、数量化を行った。

1.心的外傷後ストレス障害の高危険者のスクリーニン
  グ
 先行研究を参考にして、 22の質問項目の数量化された総得点において46/47をカットオフポイントとして、心的外傷後ストレス障害の高危険者のスクリーニングを行った。その結果281人中、101人(36%)がカットオフポイントを上回る得点であった。
a)年齢別比較
 各年齢層における高危険者の占める割合は、年齢があがるにつれて大きくなる傾向がみられた(図1)。ただし31歳以上40歳未満の年齢層においては例外的に最も低い値を示した。さらに各年齢層の得点平均を比較すると、やはり年齢があがるにつれて大きくなる傾向を示した(図2)。しかし得点平均での比較においては、高危険者の割合での比較ほどは各年齢層で差が見られなかった。
b)男女別比較
 今回調査に協力した男性回答者のうち16.7%が高危険者であったのに対し、女性回答者では40.7%が高危険者としてスクリーニングされた(図3)。また男性の高危険者がいずれも(100%)50点未満であったのに対し、女性の高危険者の得点は45点から70点以上まで幅広く分布していた(図4)。

2.特徴的な心理的影響
 今回の調査において平均点が高かった項目は、身体化徴候、不安徴候、抑うつ徴候、過覚醒徴候、自己評価の5項目であった(図5)。
a)年齢別比較
 年齢の違いについては優位な差を認めなかった(図6)
b)男女別比較
 9項目中7項目で女性が男性の点数を上回った(図7)。特に、不安徴候、抑うつ徴候、過覚醒徴候において差が大きかった。

<チェルノブイリ被災者におけるPTSDの高危険者について>
 今回行った調査では事故から16年経った現在も、全体の36%がPTSDの可能性があるという結果を得た。今回実施した質問紙法は、あくまでPTSDの可能性を見落とさないために特異性は低いものの、スクリーニングには有用であるとされている出来事インパクト尺度(Impact of Event Scale−R:IES−R)に準じて作成された。この結果から対象住民の3人に1人が、事故に対するインパクトを拭い切れずに、現在と未来に悲観的な認識を持っていることがわかる。
 この状況を招いた原因には、甲状腺がんなどの健康障害の存在、家族特に子供の将来に対する不安、そして現在も継続している放射線被爆が慢性的な外傷性ストレスとなっている可能性などがあげられる。また、今回の調査対象群はもともと、甲状腺がんの検診を目的として訪れていたため、チェルノブイリ周辺住民の中でも、事故の影響に対して不安をより強く持っている集団であったとも考えられる。そして何より、本事故が人類史上他に例を見ない特殊な災害であったため、住民自体が将来的な展望に不安を抱いていることが大きな原因の一つであると考えられる。
 現在、年齢とPTSDの発症のリスクについての報告は一致した見解が得られていない。低年齢の方がより大きな心理的影響を受けるのではという調査前の予測に反して年齢が上がるにつれてIES−Rの得点が高くなるという傾向がみられた。高齢者で特に値が高かったことは、例えば年をとって1人で暮す不安から事故の記憶をより強大なものにしてしまっているということも考えられる。また、阪神大震災の小中学生を対象にした研究でも、低学年ほど高い得点を示したが、その差は時間とともに小さくなったと報告されており、事故直後は年齢によって大きな差があったが時間の経過によりそれが平均化されたということも考えられる。
 高危険者の占める割合ならびに平均点の男女別比較において、女性が男性を大きく上回った。このことは男性よりも女性の方が事故について大きな精神的ストレスを受けていることを表している。一般的にストレス強度は外傷的出来事の種類によって異なるとされており、身体的危険を伴う暴力やショックに置いては男性では低いが女性では高いとされている。このことから考えると本事故については災害的な側面に加え、大きな身体的危険を伴っていることで、女性の方がより大きな影響を受けたと考えられる。

<特徴的な心理的影響について>
 災害後に生じる精神障害はPTSDのみではなく、抑うつ性障害や不安性障害など、さまざまな精神障害を生じることが知られている。今回の調査でも不安・抑うつ徴候が目立って高い値を示した。
 また、不安・抑うつからその外傷的出来事を惹起するような刺激から逃れようとする回避徴候が災害後の神経障害として一般的に認められている。しかし、今回の調査では、回避徴候についてはそれほど高い値を示さなかった。このことは、回避徴候についての質問項目が「事故の話をしたり、聞いたりするのがいやですか」といった内容であったため、モーズリ市がチェルノブイリから90km離れていて、火事や地震などの災害ほど回避徴候が高くなかったと考えられる。
 また身体化徴候についても、PTSD患者では身体的自覚症状の訴えが増大するという報告が多く、本調査でも高い値を示した。これは事故後に増加している他の健康障害の情報から軽微なことでも自覚症状として訴えやすい傾向(病気へのエスケープ)、にあるとも考えられるが、PTSDの患者で自覚的訴えだけでなく実際の罹患率が増大したという報告もあり器質的な病変を検索する必要もあると考えられる。
 自己評価の項目は他者に対する配慮や愛他性を示すと考えられており、心的外傷の肯定的影響として、物事を相対的に考えるようになること、洞察の深まり、自己主張の増加などが現れるといわれている。これは同じ被災体験をしたという相互連帯感や、生命に対する圧倒的な脅威の中で生き残ったという至福感などに基づく良好な感情であるとされているが、通常一過性の感情とされている。その後は被災後の生活に落ち着きが見え始め、被災者が壊滅的な現実と直面する頃になると、落胆、疑惑などの陰性感情を伴った幻滅期が始まることが多いともいわれている。
 実際、本事故は被災の規模が特に大きく同じ被災体験をした人が多かったためこういった感情が強く表出したと考えられるが、事故から16年経過した現在も高い値を示した。このことは、住民の心理状態が、反動期からさらに時間が経過したことで徐々に平静な状態へと回帰し、新たな高水準の適応状態にいたり、個人と社会の適応の向上状態にある再適応期にいたっていると考えられる。再適応期とは、外傷体験を上手く克服した場合にみられる反応過程であるとされていて、実際には相当長い期間が必要であり、生涯にわたって幻滅期が持続する可能性もあるとされている。
 しかし、ベラルーシは旧共産圏の国ということもあり平等な社会を理想とした政策がとられていたため、貧富の差が少なかったということから幻滅期が長期間に及ばなかったと考えられる。さらにベラルーシの国民性として大人が子どもの面倒をよくみるといわれており、こうした国民性の影響もあるかもしれない。

 
 今回の調査で、チェルノブイリ原子力発電所事故が周辺住民の心理にいまだに大きな影響を与えていることがわかった。しかし、これらの症状のあらわれかたには、事故でより大きな被害を受けた友人や家族を持っていたかいなかったか、その後の経済的な状況、甲状腺がんなどの器質的障害の発症など個人的な要素が大きく影響していると考えられる。またなによりも現在も継続している放射能被曝の問題が解決しないことには心的ストレスからの完全な離脱は困難と考えられる。
 現在行われているチェルノブイリに対する医療支援活動は物資支援が中心であり、実際に現地に入って活動をするような支援は少ないのが現状である。特に、精神障害に対する支援には「精神科面接や診断をする」のではなく、「被災住民の困難をきわめる生活自体を支援する」姿勢が求められている。
 従って、今回行ったような調査でスクリーニングを行い、高危険者を重点的に、さらに長期間にわたって、精神的問題の予防、ケアをはかっていくことが必要であると考えられ、今後の海外からの支援活動にも反映されることが重要である。


事故後の心理的影響のアンケート

事故後の心理的影響のグラフ



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