Chernobyl Medical Fund Newsletter (3)

2000年ベラルーシ訪問した
長野県の中学生と恩師、紙面で再会!

2000年4月、モーズリで行われた「第2回少年少女国際交流フェスティバル」に参加された、当時長野県の中学生小林志保さんと、引率された大谷先生に、今回ご登場していただきました。

継続することの大切さと難しさ

大谷 公人(CMF理事・長野県上田市立第四中学校勤務)

 1998年8月。夏休みが明けて登校すると、予定になかった「菅谷昭講演会」が開かれるようになっていました。チェルノブイリ原発事故について関心はあったものの、菅谷昭氏についてはまったく知らないまま、中学生と一緒に講演を聴きました。
 「私は、ボランティアなどということでチェルノブイリの医療支援を始めたのではありません。自分の人生のリストラクチャリング(再構築)のためにベラルーシに行ったのです」
 こう話す菅谷氏に、「自分の行っていることを、こんな風に話す人はいない。この出会いを大切にしなければ」と直感しました。講演後、販売していた著書を購入し、すぐに校長室へ。直接菅谷さんにお会いして、サインをもらいました。その時のサインは
「不言実行」でした。また、「菅谷さんの生き方をぜひ中学生に聞かせたい」と、この講演会を企画し実現させたのが、寺沢綾子さんという1人の女性だったということも知りました。
 そこから私と菅谷さん、寺沢さんとの関わりが始まりました。菅谷さんから勧められ、寺沢さんとともに、翌
1999年のベラルーシ少年少女音楽舞踊団「パレースカヤ・ゾーラチカ」の坂城町公演を積極的に引き受けました。さらに、翌2000年には、中学校の生徒達を連れて、ベラルーシを訪問しました。この訪問は印象的でした。ベラルーシの皆さんのホスピタリティーを痛感しました。
 ここで、刺激を受けた訪問団の子ども達は、中学卒業後、ある生徒は医療の道を志し看護師になり、ある生徒は大学の卒業論文のテーマとして取り上げる、というように何らかのこだわりを持ちながら大人になっています。私もその後2001年に再来日した舞踊団「パレースカヤ・ゾーラチカ」のメンバーをホームステイで受け入れましたが、その後は諸事情で交流が途切れています。ベラルーシを訪問した時に「この訪問をイベントとして終わりにしてはいけない。これが第一歩であって、長く交流を続けることが大切」と話した自分が「有言実行」ならず、忸怩(じくじ)たる思いですが、成人した教え子達から、上述のように
「ベラルーシ訪問が人生の1つのきっかけになった」ということを聞き、救われている気がします。
 私自身は、せめてもの関わりとして、CMFの一員として、ベラルーシやチェルノブイリを見続けていきたいと思います。また、自分の場でできる事として、勤務する学校では、菅谷さんの生き方を紹介し、ベラルーシやチェルノブイリ原発の話題を取り上げるようにしています。多くの人が、それぞれの場で、長く継続して取り上げていく事が大切だと思っています。
 今日までのCMFとの関わりの中で、悲しい出来事もありました。最も熱烈な菅谷さんのファンであり、私と菅谷さんとを出会わせてくれた恩人でもある寺沢綾子さんが、2000年の中学生のベラルーシ訪問を見とどけた後、ガンで亡くなられました。ご霊前で今までのお礼を言いながら、私は涙が止まりませんでした。残りわずかの人生を、菅谷さんの講演の開催と舞踊団の訪日公演に費やし、燃え尽きるようにして亡くなっていった1人の女性の生き方を私は忘れることはありません。



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