Chernobyl Medical Fund Newsletter (4)


 ベラルーシに出会って

  小林 志保

   

今回、原稿依頼をいただき一番驚いたことは、中学時代の恩師である大谷公人先生とこのページで再会をしたことです。大谷先生は私の学級担任であり、2000年にベラルーシ友好訪問団として一緒にベラルーシへ行きました。
 私が初めて「ベラルーシ共和国」を知ったのは、中学生の頃でした。坂城中学校で行われた菅谷昭先生の講演を聴き、同世代の甲状腺ガン患者の首筋に残る痛々しい傷跡のスライドを見て、強い衝撃を受けました。講演会後はあらためてチェルノブイリの恐ろしさをビデオで見てクラスのみんなで学び話し合ったり、ベラルーシの同世代の子と文通をし始めました。そして次の年の春、クラスで集めたベルマークを物資に換え、私を含め中学3年生6人がそれを持ってベラルーシへ行きました。あれから約8年の歳月がたち、私は神奈川県にある文教大学国際学部の4年生になりました。そして学生最後の集大成として仕上げる卒業論文で「ベラルーシ」を扱うことを決めたのです。学生の最後にベラルーシとの出会いを見つめなおし、そして新たな目線で物事を見たいと思いました。
 ベラルーシを訪れた14歳の時「貧しさって何だろう」と思いました。決して裕福とはいえない彼らの生活。ホームステイ先のヒビ・キズの多い部屋やトイレ、壊れかけた車。今でも鮮明に覚えています。しかし彼らには明るい笑顔と生命力がありました。経済的貧しさはあるけれど、心の豊かさがあるのかなと、アパートのベランダで言葉の通じないパパとジェスチャーで会話しながら思ったのを思い出します。なかなか最初は心を開けなかった私。現地へ着いて初めて放射能の恐怖を感じ、食事が喉を通らなかった私。最後、帰りたくないと言って大泣きした私。数日間の滞在ではありましたが、まだまだ短いけれど私が今まで歩んできた道の方向性を決めた大きなものでした。
 「22歳になった私は何をベラルーシで感じるのか」今年の夏にベラルーシへ行く予定でした。
 残念ながら今年は行くことはできませんでしたが、日本でもできることや知るべきことがたくさんあるのだと思い、現在は事務局の北和田さんをはじめ、多くの方々に大変お世話になりながら、卒論研究をしています。その中で20年たってもぬぐい取れない悲しみや恐怖、目には見えない放射能がベラルーシを包み込んでいることを学びました。
 「事実」を知ることで時に胸が痛み、涙がでてしまいます。「苦しさをバネに生きている」などと軽々しく言うことはできない、と強く感じました。
 今、ベラルーシの大学生の女の子2人とEメールで話をしています。彼女たちの趣味や大学での専攻、好きな映画や音楽について話をしながら、「チェルノブイリの恐ろしさ」も聞いています。いつの日か彼女たちに会いにベラルーシへ行きたいです。医療的な支援は私にはできないけれど、きっと私にもできることはあるはずです。ベラルーシをきっかけに出会えた人たちに感謝をし、もっとつながっていきたいです。「できること」だけではなく、「したいこと」が私の中に芽生えてくることが、私の今の目標です。



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