Chernobyl Medical Fund Newsletter(7)


日本が戻ってきた!!

オクサナ・テスロバ

 日本を離れるのはどんなに悲しかったことでしょう…。6カ月の研修は実り多く、そしてあまりにも早く、ゆき過ぎてしまいました。  しかし、日本が戻ってきたのです!!
 親愛なる菅谷先生が千原さんと中村先生と一緒に、例年の人道支援活動のためベラルーシに到着したのでした。
 今年のベラルーシは、この支援団を異常な暑さで出迎えました。日中の気温は35〜37℃まで上がり、夜も20℃を切らないのです!過去50年間以上、このように暑く乾燥した夏はありませんでした。
 CMFの滞在日程は、全員の懸命な働きと効率が求められました。
 菅谷先生と千原さんはゴメリ当局と、ゴメリ州保健局の代表者たちとたくさんの会合を持ちました。
 ゴメリ医科大学のリズュコフ学長との会合では、医学教育と研究の見通しについて話し合いました。学長はチェルノブイリ医療基金に対し、私の研修に対するお礼を述べ、さらなる協力を願いました。
 ゴメリ州保健副局長のプリストーピン氏とゴメリ州医師会長ノビコフ氏との会合では、当地方の周産期死亡率の問題点と、この死亡率を減らすための展望と方法、システム構築の役割についてなどを話し合いました。
 保健局側は、菅谷先生がチェルノブイリ事故の影響を受けた地域の問題へ注意を払ってくれていることに対して謝意を表し、千原さんには毎年、長野県立こども病院で医師が研修を受ける機会を与えてくれることに、そして中村先生にはベラルーシの医師たちの教育に対する彼の指導的役割に、それぞれ感謝を述べました。
 最も公的な会合は、菅谷先生と彼のゴメリの同じ立場である、ゴメリ市長ヤコブソン氏との会合でした。会話はリラックスし、親密なものでしたが、ジャーナリストやテレビも交えたトップ会談だったということができます。ヤコブソン氏はチェルノブイリ医療基金の功績をたたえ、松本の環境、人口、経済上の問題点およびそれらに対する対処法などについて質問しました。個別の問題としては、彼らは長野県での妊婦や子どもに対する医療ケアシステムと、それをゴメリ地方に導入する可能性について話し合いました。
 ミンスクでは、保健省エレーナボクダン母子社会部長とデミチェク教授、シブコフ国際部長との会合をもちました。医師や専門職の大学院教育の強化や、国際協力、実際的な経験を交換することについて話し合いました。医師たちが簡便に現代の医療文献を手に入れられるようになることが、とくに強調されました。保健省側はCMFの人道支援について触れ、両国の関係がさらに発展することを望みました。
 また、基金のメンバーは国立医学図書館を訪問し、館長と現代の医学出版物や電子媒体による情報源の可能性について話し合いました。図書館のスタッフは、CMFの配慮をとても喜びました。
 もちろん、医師たちの一番の関心は、中村先生の講演でした。彼はゴメリ市立第一病院と、ミンスク国立小児臨床病院とで、2回講演を行いました。いずれも、講演会場は医師たちであふれかえりました。近郊の町から、日本人の教授による講演を聴きに、わざわざみんな集まったのです。中村先生はすばらしい演者で、すべての新生児科医が日々の診療で直面する問題点や日本における高度な診断能力、これらの症例への特殊な治療法、子どもたちの短期的および長期的予後や子どもたちの周産期リハビリテーションシステムなどについて、聴衆に情熱的に、かつ分かりやすく講演しました。とくに印象に残ったのは中村先生が医長を務める、こども病院のNICUの様子を写したショートフィルムでした。ベラルーシの医師たちは彼ら自身の目で、極度の未熟児が、いかにしてたった数分間のうちに完全な蘇生処置を受け、モニターシステムが組織され、特別な治療法が開始されるかを目の当たりにしたのです。誰もが新生児の搬送システムと「ドクターカー」に感動しました。中村先生は、私たちにとってもっとも差し迫った問題である新生児期、幼児期、小児期におけるリハビリテーションシステムについてとくに強調しました。
 2つの講演の後で、聴衆たちは聞いたことや見たことに対し非常な興味を持って、1時間、中村先生にさまざまな質問をしました。いずれの病院の責任者たちも中村先生に温かいお礼を述べ、彼に、毎年ここに来て同僚たちに経験を分かち合ってくれるようにお願いしました。
 また、講演の後ではCMFメンバーは長野県立こども病院における研修の新しい候補者たちの面接も行いました。
 すべての候補者たちはとても優秀で、自らの専門技術をレベルアップさせたいと強く望んでいました。
 全3日間の滞在で、CMFメンバーは莫大な量の組織的、教育的仕事を行いました。毎回、ベラルーシの医師たちがどれだけの感謝と尊敬を込めて「菅谷先生」と呼んでいるかを感じました。
 日本の支援団のベラルーシ滞在最終日、激しい雷雨がありました。CMFにさようならを告げるベラルーシが泣いていたのです。  私も、この素晴らしい人たちと別れるのをとても悲しく思いました。なぜなら彼らは私の日本の一部なのですから。私は「日本よ、さようなら」と言いたくありません。私は「日本よ、また会いましょう!!」と言いたいのです。

愛をこめて オクサナ




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