Chernobyl Medical Fund Newsletter (3)

3度目の訪問で見つけたもの

橋本すみれ

 7月14日夜、仕事を終えて京都から東京に向かう新幹線に乗った。翌朝ベラルーシに向けて飛び立つのだ。直前までばたばたしていたこともあり、なんだか全然海外へ行くという実感がわかなかった。空港についても、飛行機に乗っても、まるで近所の友達の家に行くような安心感を感じていた。懐かしい顔がたくさん浮かぶ。同世代の友人たち、ゾーラチカの愛らしい子どもたち、検診に来られる市民の方々、現地の医師たち・・・。まだ2回しか訪問していないのに、あの国の人々は記憶の中で生き生きと、大切な存在として私の中で居場所を見つけている。
 実際に現地に降り立っても、私の大好きな人々の笑顔はまるで記憶と変わらなかった。残念ながら都合が合わず、会えなかった友人もいたけれど、それでも寂しさを感じないくらい、たくさんの温かさに触れた。そして振り返ると、今回は今までにないくらい、たくさんの
を見つけた訪問だったように思う。
 例えば、モーズリでの検診に小さな子どもをつれて来るお母さん。小さな首にエコーをあて、私が診察をしている間中、お母さんは腕を組み、眉間にしわをよせて、私の背後からエコー画面をにらむように見つめている。私が子どもに「おしまい、大丈夫よ。」と言うと、子どもはたいてい、ぱっと体を起こしてベッドを降りてしまう。私は次の人を導き、エコー検査を始めようとする。するとさっきの子どものお母さんが私の肩をたたき、「ノルマルナ?」と聞くのだ。私が
「ノルマルナ(大丈夫ですよ)」と言うと、その瞬間、不安で今にも泣き出しそうだった顔が、一気にぱあっと明るくなる。それだけお母さんの心配、不安が強いということで、それ自体は非常に悲しいことなのだが、お母さんの曇った顔が晴れる瞬間、それはなんとも言えず、ものすごく美しい。これが母親の愛なのだと思う。
 今年知り合った、1歳の子どもがいるナターシャは、私が「チェルノブイリ事故で生活が変わったと思う?」と聞いたら、少し考えてからこう言った。「生活が変わったかどうか、それはわからない。だって、あの悲劇がなかった、という生活は存在しないんだもの。私たちはここで今までもこれからも生活するんだし」。そして一呼吸おいて、真剣な瞳でこう続けた。「でも、できることなら私たちの息子にはここを離れて暮らして欲しいと思ってる」。考えたくないことを考えさせているのではないか、私の質問自体が何か彼らを傷つけやしないかと思いながらも、私が「あなた方がここを離れたいとは思わないの?」と重ねて尋ねると、ナターシャは首を振ってため息をついた。「できることなら、自分たちもここを離れたいけれど、お金がかかるでしょう?そして、私たちの両親はみんな70歳を超えているの。両親が私たちにここにいてほしいと願っているから、私たちはここから離れられない。でもね、できることなら息子には、新しい、
不安のない土地で生きて欲しいと願ってるわ」。ナターシャの両親への愛、両親のナターシャたちへの愛、そして、ナターシャ夫妻の小さな息子への愛。いろんな愛がきらきらとナターシャの言葉からこぼれてくるようで、それ以上言葉が続けられなかった。
 あの事故で多くのものが失われた。家を追われた人がいる。病にかかった人がいる。そして人々は、今現在も目に見えない放射能とその被害におびえて暮らさなければならない。生活もけっして裕福とは言えない。そんな状況で、どうしてこの国の人たちはこんなに温かいのだろうと、3年前初めて訪れた時不思議に思った。悲しみを背負ってなお、どうしてこんなに優しくなれるんだろう、と。彼らの心の中まで私にはわかるはずもない。でも、想像しようとすると胸が痛くなる。彼らが強ければ強いほど、彼らが温かければ温かいほど、その背後にある悲しみと苦しさを思い、私の心は重くなる。だが今回、彼らの強さと優しさの秘密が少しわかったような気がしている。彼らの支えになっているのは、まさに
家族の愛なのではないか。お互いがお互いをいたわり合い、支え合い、強い絆で結ばれている。これが彼らの生きる原動力になっているのではないだろうか(写真)。
 ゴメリで、菅谷先生と術後の子どもたち4人との会食があった。今までは各家庭を訪問していたが、今回は子どもたちの方に、ホテルまで来てもらったのだ。子どもと言っても、もうみな20代の美しい成人女性に成長しているのだけれど。食事の最後に、彼女たちに「菅谷先生は皆さんにとってどんな存在ですか?」と聞いてみた。通訳の小川さんが訳し終える前に、彼女たちは口々に答えてくれた。子どもたちにとって先生とは「最も親しい人」「いつも私たちのことを考えてくれる人」そして、
「第二のパパ」
 正直に言うと、この答えは少し意外だった。私はもう少し、こなれた回答が聞かれると思っていたのだ。もう少しよそゆきの、お行儀のよい言葉たちが並ぶと思っていた。こんなにも素朴で、温かい言葉が聞かれるとは予想していなかった。日本の20〜30年前のように家族の結びつきが強いと言われる国で、大黒柱であるだろう「パパ」という響きの中に
無条件の信頼感、安心感を感じる。菅谷先生とは帰国後、年に1度会うだけ、今回は2年ぶりの再会というのにこの慕いよう。一緒のテーブルで食事をしていて、菅谷先生と彼女たちの間に強く結ばれた絆が目に見えるような気がした。
 チェルノブイリ事故、そして甲状腺の手術、それらについては「もう忘れちゃった」「なんとも思っていない」と言い切り、一人一人が
自分の道をしっかりと歩み出していた。もちろん彼女たち自身の持つ強さのなせるわざだろうが、菅谷先生の存在とその愛情が、彼女たちにとって欠かせない、大きなものであることは疑いようもない。会えない時間が長くても決して色あせない、これも一つの確かな愛なのだ。
 そんなことを考えながら、鈍感な私は先生と子どもたちのつくる幸福な雰囲気にどっぷり浸っていた。しかし、帰りの飛行機の中で先生がつぶやいた。「4人と会ったとき、アーニャはタートルネックを着ていたね。ほかの子たちはみな首の開いた服を着ていたのに・・・。以前は、
『私は傷なんかに負けない』って言ってたのになぁ。やっぱり彼女も大きくなっていろいろ感じることがあるんだろうか。大勢いたから聞けなかったけれど、ちょっと心配だなぁ」。アーニャは、従来の大きな傷の残る甲状腺の手術を受けた少女だ。今は少女というのは失礼なくらい大人びた女性になって、助産師として働いていると言っていた。3年前、私が学生時代に訪問したとき、私の友人の日本人男子学生が、その美しさを「妖精みたいだ!」と表現したことを覚えている。3年前の彼女は写真の中で、痛々しい傷を隠すことなく、大きく首の開いたワンピースを着て微笑んでいる。今回タートルネックを着ていたことは、私も気づいていたけれど、菅谷先生の心配には思い至らなかった。
 10代から20代、いわゆる“多感な”時期。女性が最も劇的に変化する時期かもしれない。2年会わなかった間に彼女の中でどんな変化があったのかは知る由もない。首にある傷のことで、心が傷つくことがあったのだろうか。人の目にさらしたくないと感じているのだろうか。考え出せばきりがない。菅谷先生の心配そうな瞳が心にひっかかる。 
でも、と思う。きっと大丈夫。何かが私に確信させる。チェルノブイリの事故後、絆を育みながらさまざまな困難を乗り越えてきた国の人々。この優しく強い人たちは、運命を呪うことなく、すべてを受け入れて、それでもなお、前を向いて歩んできたのだ。美しさに芯の強さを兼ね備えた、菅谷先生のベラルーシの子どもたち。今回の「第二のパパ」の訪問が、彼女たちにさらなる力を与え、力強く大きな
空に羽ばたいていくことを信じたい。そして、あの事故のすべての犠牲者に1つでも多くの幸せが訪れることを祈りたい。
最後になりましたが、ベラルーシ滞在中お世話になった通訳の小川さん、運転手のサーシャさんはじめ現地の方々、ならびに菅谷先生ご夫妻、チェルノブイリ医療基金事務局の方々はじめ、善意を寄せてくださるすべての支援者の方々にこの場をお借りして心から厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。



ニュースインデックスに戻る

次のページへ