Chernobyl Medical Fund Newsletter (4)


 ベラルーシ -美しい大地と温かい人々- 

 中塚 慶徳 

 今回、菅谷先生のベラルーシ訪問に同行させていただき、本当に貴重な体験をさせていただく事ができました。医療支援活動の手助けをするというよりは、医学知識に乏しくベラルーシの事もあまりわからない学生の私などは、ただの足手まといになってしまっただけなのではという気持ちもあるのですが、ここで私がベラルーシで感じ、学んだことを記す事により何らかの貢献をしなければと思い、感じた事を自由に書き綴らせていただきたいと思います。
【7月14日 木曜日 始まり】
今日は夜9時までに成田空港近くのホテルで菅谷昭先生と打ち合わせをしなくてはならない。というわけで三重大学の神経内科の病院実習をなんとか無理をいってお願いして、午後2時に抜けてきた。必死で空港近くのホテルに到着。菅谷先生に連絡をとり、ホテルの先生の部屋で初対面。テレビ番組で見たままの、目尻の下がった細面の優しそうな顔の先生がドアを開けた。これからしばらくの間お願いします。
【7月15日 金曜日 フランクフルトへ】
 朝、空港で皆と待ち合わせ、なんとか、出国手続きを終えて飛行機に乗り込んだ。まずはフランクフルトへ行って1泊するのだ。飛行時間はとにかく長い。映画を3本見てしまう。足が伸ばせず窮屈で大変な思いをした。エコノミー症候群になるのも分かる気がする。フランクフルトの空港に着き、そこからタクシーに乗り込み、街のホテルへと急ぐ。ここで1泊した。
【7月16日 土曜日 ベラルーシ到着】
 朝の便に乗り込んでミンスクへと向う。約2時間程度の飛行ですぐ着き、これくらいならばかなり体力的には楽である。ミンスクの空港へ降り立ち、入国審査へ。非常に質素なつくりの建物で、国際空港とは思えない。この国に入るには、保険に入らないといけないとか言う理由で、小さいカウンターで手続きを行う。その後、パスポートを見せていろいろ聞かれた。その後、私と菅谷慎祐君と橋本先生はゲートをくぐって待っていたが、なかなか菅谷夫妻は現れない。エコーの事でもめているらしい。通訳の小川さんもヘルプするが、結局、帰国の時に装置を持ち帰るということで何とか入国を許可された。どうして持ち込んで置いて行ってはいけないのかが理解に苦しむところだ。ともかく、無事に入国でき、今度は車に乗り、モーズリへと移動する。そこで2日間にわたり甲状腺の検診を行うのである。いざモーズリへ。道はとにかく真っ直ぐ。片側2斜線で、中央分離帯にはガードレールなどの代わりに7メートルほどのスペース。土があったり、草が生えていたりする。路肩は舗装されていないが5メートルくらいある。非常にゆったりとしたつくりである。そして、外に見えるのは草原、牧草地、森林。時々、地平線の向こうまで耕してあるのかのように黒い土が見えていたりする。たまにたくさんの乳牛。視野の真ん中で上に青、下に緑を分けている一本の線は、実に真っ直ぐである。写真に収めてもこれは伝える事ができないだろう。この一本の線が右を見ても、左を見ても、前を向いても後ろを向いても続いている。こうした場所で自転車で走っていたり、歩いている人たちがいるのだが、一体どこへ向っているのだろう。次の街までは大変な距離があるのである。時には、ヒッチハイクなのか、片手を上げている男性も見られた。また、ところどころでお弁当のようなものを食べている人がいたり。ここにいると、日本での空間の容積を10倍くらいにしたような感じを覚える。空間的な事はもちろんのこと、時間の流れもそれにあわせてゆったりしているように感じるのだ。
ずっと走っていくと、前方で初めて、地平線が変化を見せた。少し高くなっている場所があるのである。「あそこがモーズリだよ」と菅谷先生が声をかけてくれた。橋を渡っていく。その下には幅200メートルくらいの、流れはあるのかないのかわからないような川がある。パレースカヤ・ゾーラチカの子供たちが待ち構えていて歓迎してくれた。その後、部屋に案内された。この1日は本当に疲れ、ほとんど何も考える時間もなく、知らない間に眠りについていた。
【7月17日 日曜日 検診1日目】
 朝、なんとか起きて、検診を行う部屋で検診の準備をする。検診室の外へ回ると、検診の部屋のドアの前には20人くらいの人がいつ始まるかと待っていた。いろんな年代の人がいる。ついに検診を開始する。順番に人を招き入れ、ゲンナジー医師の息子であり、医学生のアントンが机で受付を行い、名前、生まれた年、住所などを書きとめている。そしてゲンナジー先生が、日本から持ってきたエコーでベッドに寝た患者さんを次々に検査していく。タチヒン先生が触診を行う。さまざまな人々が入ってくる。中年の女性や、子どもを連れたお母さん。子どもの健康を心配する母親あるいは祖母の姿には何度も出会った。子供を思う親の愛情は世界共通である。ゲンナジー先生の横にいて、ビデオを撮影しながらエコーの見方について英語で講義を受けた。非常に簡潔でわかり易く、勉強になる。とにかく、次から次へと患者が入ってくる。検診は結局約250人が受診した。大変な人数であるが、今日は日曜日であったし、明日は月曜日であるから、少し少なくなるだろうと菅谷先生はおっしゃっていた。
【7月18日 月曜日 検診2日目】
 朝は気持ちよく目覚めた。今日は二日目の検診である。今日は、ゲンナジー先生とタチヒン先生はいない。従って少ない人数での検診となる。昨日はエコーの器械を2台用いて検診を行ったが、今日はまずは1台で開始した。橋本先生がエコーの専門家を務める。朝から多くの人がドアの前で並んでいた。昨日は若い人が結構いたが、今日はやや年のいった40代以上くらいの人が多い。若い人は働いたりしているのだろうか。2回目の検診なので多少余裕がでてきて、「パジョルスタ(どうぞ)」と言って、患者さんを誘導する役割をやる事にした。私のつたないベラルーシ語も一応のところ通じているようだ。こちらに移動してくださいってな感じで手を動かしているから理解してくれているだけかも知れないが。とにかくどんどんと人が来る。昨日の予想に反し、気づいたら400人近くの検診を行っていた。
【7月19日 火曜日 市内視察】
 子ども病院の見学をさせていただいた。病院に着くと、外で白衣を着たドクターが出迎えてくれた。病院は白が基調で、非常に清潔感のあるつくりである。確かに中は美しい。日本の病院と違い、物が少なく、すっきりしているのである。薬や医療機器を買い揃える事ができないこの国の状況を垣間見る事ができた。廊下には、子どもをつれた若い母親の姿がたくさん見られた。この国の子どもは本当に可愛い。また、母親の子どもへの愛情も感じることができた。
 その後、運転手のサーシャにスゲ(菅谷慎祐君)と一緒に街を案内してもらった。眺めのいい場所へ連れていってもらう。チェルノブイリへと続く川が眼下を左右に流れ、その向こうには、平らな地面と、ところどころに森が広がっている。この地平線は、三重に住んでいて海を見慣れている私が見ると、一瞬「海がみえるんだ」と思ってしまい、しかしよく考えると海はないはず、と考えて、ようやく地平線だと気づくくらい、それほどに広く広がっていた。そこには、人懐っこい少年2人がいた。スゲが写真を撮って子どもたちに見せると、何かロシア語で言ってゲラゲラ笑っていた。サーシャの通訳によるとその子たちは、「夏休みだけど、車を洗って働いているんだ」という。小さな子どもも働くたくましい社会を感じた。確かに貧乏かもしれないが、しかしその子らの笑顔は、日本の子どもたちよりも無邪気で、幸せそうに見えた(写真)。チェルノブイリの悲劇があったことも、子どもたちの笑顔を見ていると忘れてしまう。チェルノブイリへと続く川では、たくさんの人が水着で遊んでいる。
【7月20日 水曜日 4人の患者さんとの対面】
 この日は荷物をまとめて、ゴメリへと出発した。また例によって、平らな何もないところを、とことん走ってゴメリに着く。午後6時から、以前より菅谷先生が術後経過を追っていた4人の患者さんと、健康相談・報告を行った。長いテーブルの向こう側に、左からアーニャ、スベトラーナ、ターニャ、カーチャが並んだ。まず、1人1人の様子を聞く事から始まった。まずはカーチャから。カーチャは、ショートヘアでほっぺたが少し赤い活発そうな女の子である。今は手術場の看護師を務めているという。結婚して子どもを生みたいと考えていると言い、また、医学部の受験を考えていて、8月に試験があるそうだ。ターニャは若さあふれた女性。こちらは医学部の1年生で、入学できた事にびっくりしているようだ。スベトラーナは、細身の女性で、やはり美しい顔立ちで、年齢は20代真ん中であろうか。子供がいるらしい。最後のアーニャは18歳くらいの若い女性で、細身で、あどけない顔立ちであるが、くせ毛の金髪と、口の端がちょっと上がった上品な顔立ちをしている。助産師にもうすぐなるらしい。タートルネックを着てネックレスを着けていた。ほかの3人は非常にきれいな手術跡でほとんど気づかないほどであったが、アーニャはあるいは傷跡を気にしているのだろうか。いずれにしても、女性が皆美しく着飾っており、美意識が高いと思われるこの国で、首に傷跡を持つことはつらいことかもしれないと考えながら4人の話を聞いた。このように、手術をした子どもが元気に育ってくれていろんな話を聞かせてくれるのは、医者として本当に幸せな事であるなと思いながら、菅谷先生をちょっとうらやましく思った。最後に、スベトラーナが6ヶ月になる赤ちゃんの写真を見せてくれた。本当に可愛い。考えてみると、被曝して甲状腺がんになった場合、生まれてくる子どもにも異常が起きないかどうか心配しないといけないし、本当に大変だ。しかし、病気のことに関しては、4人とも、「今ではほとんど忘れている」と言う。実際のところ、昔の病気など気にしてはいないだろう。ただ、そうした経験が彼女たちを、強く生きさせているのではないかと感じた。よく、「病気に負けず頑張る」というようなフレーズを聞くが、むしろ、病気にかかって、手術を受けて、そうした経験が、医療方面の仕事へと進むきっかけになったり、子どもの事を思いやるお母さんになったり、むしろプラスの方向に働いているのではないだろうか。しかし、とにかく体が不健康ではこうした生活はできないわけで、子どもたちの将来を変える医師と言う仕事は本当に魅力的だとしみじみと感じた。
【7月21日 木曜日 首都ミンスク】
 朝、ゴメリを出て車でミンスクへと向かう。ミンスクは極めて美しい都市である。非常に広い道、歩道、そして美しい建物。日本は島国であるからあり得ないが、ヨーロッパでは、道の向こうには違う国があるのである。こうしたところを車で走り回っているサーシャの生活は、本当にのびのびしていてうらやましい。
【7月22日 金曜日 最終日】
 今日がベラルーシ最終日。小川さんが集合時間に少し遅れて現れた。「この子はナターシャ、こちらはそのボーイフレンドのジーマ」。驚くべき事にナターシャは小川さんの娘らしい。日本人の血が混ざっている事はよくみるとそうかもしれないなと思うが、ほとんど分からない。これまで、キャリアウーマンで仕事ができる女性の顔をしていた小川さんの顔の緊張感が少しゆるみ、母親の顔に戻ったような感じがした。ナターシャはミンスク大学、日本の東京大学のようなところみたいだが、数学とプログラミングを勉強していたらしく、今年卒業したらしい。日本でおじさんが会社をやっているらしく、そうしたところに行って働いてみたいとも言っていた。流ちょうな英語を操り、非常に聡明そうであった。
 私が大学でサッカー部に入っており、ベラルーシ代表のユニフォームを探していると話すと、一緒になって探してくれた。ディナモ・ミンスクのスタジアムに行って、周りの露店を見て探してくれたが、結局見つからず、あきらめて空港へと移動した。しかし、ここで小川さんが、「ナターシャたちが、ユニホームとロシアポップのCDを買ってくれたみたい。空港まで届けてくれるそうよ」という。大変びっくり。どこまで親切にしてくれるのやら。空港でしばらく待っていると2人が現れ、ユニホームをくれた。「お金を払わないと」というと、「とんでもない。ささやかなプレゼントですから」と言って断られた。本当にありがとう!

【追 記】 このベラルーシでの滞在で感じた事を簡潔にまとめますと、ベラルーシの国の美しさ、人々の温かさ、そして生きていくたくましさの3つに集約されると思います。ベラルーシの国の美しさは、上の文で一生懸命表現しようとしたのですが、上手く表現できたか自信がありません。写真でも表現しきれないと思うほど、本当に美しかったのです。また、あまり予備知識がなかった事もあり、実際に訪れる前のベラルーシという国に対する印象は、チェルノブイリにより被害を受けた不幸な国・・・というほどのものでした。そして、そうした不幸で貧乏な国と比べて、裕福で幸せな国である日本に住んでいる私たちは手を差し伸べなければいけないのでは・・・という考えが頭の中にあったのではないかと思います。しかし、実際にベラルーシを訪れて、そして多くの温かい人々との交流を通して、そうした考えが何と愚かで、傲慢なものだったかを思い知ったのです。ベラルーシに住んでいる人々は美しい自然に囲まれて、本当に人生を楽しんでいたのです。そして、人々の温かさ!例えば、訪れた場所で多くの人々が外に出て待っていてくれるのです。ゾーラチカの子どもたちも、こども病院のドクターも、ミンスクのDr.ユーリー・デミチクも、私たちがいつ着くのか正確にはわからないはずなのに、外に出て待ち構えていてくれる、その温かい歓迎。また、検診で甲状腺に異常がないことがわかり私たちに抱きついて喜ぶおばさん、孫の甲状腺を心配して必死に私達に訴えるおばあさん、その深い愛情。また、現在の社会状況を考えながら自分の進むべき道を懸命に模索していた若者たち、そのたくましさ・・・そして、今回学んだ最も大きな事は、菅谷先生のベラルーシでの5年半の医療支援は、決して1人の力でできるものではなく、Dr.ゲンナジー、Dr.タチヒン、Dr.ユーリー、通訳の小川さん、運転手のサーシャ、その他にも本当にたくさんの人々が、先生の行動に共感し、力を合わせて築きあげられた物であったということです。こうした人と人とのつながりがある限り、ベラルーシの医療体制を整える手助けをできる範囲でする一方、ベラルーシの人々から人生の楽しみ方、生きていく意味などを学んでいく、そんな流れが永く続いていくように感じたのです。今回、本当に短い期間の滞在でしたので、良い部分だけしか見えていないのかもしれません。ベラルーシ国内の政治、経済状況などの問題は、実際に現地に腰を下ろして生活してみないと見えてこない問題も多々あることと思います。しかし、そうした問題に対しても、菅谷先生のモットーである、「あせらず、気負わず、地道に、そして自分のできる範囲で」を守れば、誰にでも、できる事が何かあるはずではないでしょうか?今回の検診でも、非常に遠い所から手伝いに来てくださったDr.ゲンナジー、Dr.タチヒン、通訳の小川さん、そのほかにも多くの人々が、このチェルノブイリの悲劇に対して、それぞれができることをする事により、1人だけでは決して起こす事のできない、大きな大きな流れが起こっている事を実感する事ができました。そして、ベラルーシはこれからも医療に限らず、そうしたさまざまな流れを受けながらどんどん変化していく事でしょう。
 最後に、こんなすばらしい機会を与えてくださった菅谷昭先生、そのほか多くの関係者や支援者の方々にこの場をお借りして深く感謝いたします。このベラルーシでの記憶は、私にとって永遠に失う事のない、大きな大きな宝物となるはずです。本当にありがとうございました。



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