2025.07.10

【山本雄一郎のWebエッセイ】軍艦島、夏の日の逃避行

 一年で昼の時間が最も長く、太陽の高さが最も高くなるといわれるこの日の正午、九州新幹線、特急リレーかもめ、そして長崎新幹線と乗り継いだ僕は長崎にいた。

 曇っていた空がいつの間にか晴天へと転じていて、自然と足取りも軽くなる。軍艦島上陸に成功するかもしれない。そう、僕はこれから遊覧船で軍艦島に向かうのだ。「土曜日に旅行ですか? 余裕ですね?」ではない。これは現実逃避だ。やらないといけないタスクが、いつ終わるともわからないタスクがいっぱいなのだ。とはいえ新幹線の中では、スマホ片手に大量の未開封メールを捌きはした。簡単な仕事なら、移動中でもどこでもこなせてしまう今という時代はほんとに素敵すぎて涙が出そうだ。なお、フリック入力なる高等技術はマスターしていない。

 長崎駅からは徒歩で長崎港に向かう。理論的には僕の影の長さも一年のうちで最も短くなるはずなのだが、さてはて、僕の影の長さが普段どれほどなのかがわからない。遊覧船乗り場にはすでに多くの観光客が列をなしていた。最後尾近くに並んでいた僕は、冷房が効いているであろう一階船内を横目に、日差しの照り付ける二階デッキへと向かう。ガラス越しではなく、直に景色を観て、風を感じてなんぼだろうとうそぶいてみたくなる。

 出港後、しばらくは船内アナウンスに耳を傾けつつ、長崎湾内の景観を楽しむ。長崎造船所の赤煉瓦の史料館、迎賓館、そしてジャイアント・カンチレバークレーン――。伊王島大橋を越えたあたりから徐々に船の揺れが大きくなり、飛沫が上がり始める。気温は30℃を超え、乗船時に首に巻いた保冷剤は、軍艦島手前にある高島に上陸したときにはもうその役割を終えていた。

人工島の記憶にみるハラスメントと衰退

 高島で軍艦島の歴史を学んだ僕らは再び遊覧船に乗り込み、軍艦島に向かう。そのフォルムが軍艦に似ていることから軍艦島と呼ばれるこの島の正式名称は「端島(はしま)」。もとは草木のない岩礁に過ぎず、護岸堤防の拡張を繰り返しつくられた海底炭鉱にまつわる人々が暮らすための人工の島だ。軍艦島に上陸できる場所は一つだけで、そのドルフィン桟橋には利用禁止となる天候基準がいくつかあり、この日は波高が原因で上陸することは叶わなかった。残念ではあったが、ジメジメした暑さに加え、強い日差しに体力を削られていた僕には、この遊覧船で軍艦島をぐるりと一周する、それで十分だった。

 狭い島のなかには多くの人々が暮らすための鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が立ち並び、警察や病院、学校、プール、グラウンド、映画館、そして神社といった施設まである。最盛期には約5,300人が暮らし、当時の東京の9倍もの人口密度があったというから驚きだ。今、そんな地域があったならどうだろうか。田舎に住んでいる僕には東京での暮らしですら想像できないのに、その9倍もの人口密度の環境下で暮らすなんて……と今ならそう考えただろう。でもあのときは、暑くて、そして何より仕事から逃亡してこんな海の上にまでやってきたにも関わらず、僕が船上で思いを巡らせたのはハラスメント問題と衰退のことだった。

 ハラスメントって、いやいや時代が違うでしょ。そう、時代が違う。今までもあったことが問題になるようになっただけだ。だから、仮に今現在において、同質性の高そうな小さな島のなかで、そんな人口密度だったらと思うとぞっとする。そして、今やパワハラやセクハラは個人の問題ではなく、組織の問題なのだ。

ハラスメントは今、経営陣にとって「リスクマネジメント」であるだけでなく「生産性」「人材獲得競争力」に関わる重要事項です

-白河桃子:ハラスメントの境界線 セクハラ・パワハラに戸惑う男たち.中公新書ラクレ、p249、2019

 もう一つは衰退。エネルギー革命により、エネルギー需要が石炭から石油に移ったことで炭鉱は閉山となり、軍艦島も無人島となった。そこで暮らしていた人々は何も悪くない。悪くはないが、仕方ない。生きていくためにはそこ以外で働いていくしかなかったのだ。そして、ただただ荒廃が進むその島を前に僕が連想したのは、今のITやDXがさらに進んでリアルの場での調剤薬局の必要性が薄れていく、そんな絵だった。オンラインとかそんな次元の話ではない。例えば、人々の生活がメタバース(仮想空間)中心になったとしたらどうだろう。個人の問題であれば、リアルであろうとメタバースであろうと関係ない。僕は患者さんのためになる仕事ができる。その自信もある。でも組織となると、今のままではきっと難しいだろう。

現実逃避の果てに得た充足感

 まだまだ明るい夕方、長崎駅で本場のちゃんぽんを食べようと、ここでも行列に並ぶ。僕の一つ前には大きなスーツケースを手にした外国人観光客。もう一つ前には人材紹介会社の手提げ袋を持ったカップルが楽しそうにおちゃらけている。就活イベントの会場で素敵な出会いでもあったのだろうか。可能性の塊のような彼らを眩しく感じる。

 さて、お目当てのちゃんぽんだが、スープまで飲み干してしまった。舌鼓を打つとはこのことだろう。血液のほとんどを胃に持っていかれた状態で新幹線に揺られ、その乗り換えの多さを恨めしく思いつつも、ひさしぶりに僕の心は満たされたように感じたのだった。

山本 雄一郎(やまもと ゆういちろう)

1998年熊本大学薬学部卒。製薬会社でMRとして勤務した後、株式会社ファルマウニオン(本社:福岡市城南区)の前身である有限会社アップル薬局に入社。2014年1月から日経ドラッグインフォメーションOnlineコラム「薬局にソクラテスがやってきた」を連載(全100回)。2017年3月『薬局で使える実践薬学』(日経BP社)、2022年10月『誰も教えてくれなかった実践薬学管理』(じほう)、2024年3月『ソクラテスが贈る若手薬剤師研修テキスト~薬局薬剤師として輝くために~』(kindle)、2024年9月『誰も教えてくれなかった実践薬歴 改訂版』(じほう)を発刊。2017年4月より熊本大学薬学部臨床教授、同年8月より有限会社アップル薬局の代表取締役に就任。2024年1月より合同会社ファーマエディタ代表社員。有限会社アップル薬局の吸収合併に伴い、2025年1月より株式会社ファルマウニオンの代表取締役に就任。

@kumamotoPh usan_appleph

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