2026.06.10

【山本雄一郎のWebエッセイ】道に迷わなくなった僕ら

MCIのテレビCMを見ながら

「あなたもこれなんじゃない?」

 MCI(軽度認知障害)のテレビCMを指さしながら妻が言う。そういえば、「早期アルツハイマー(AD)治療薬」とは表現するけれど、「MCI治療薬」とはあまり呼ばない。そう思ってGeminiに尋ねてみると、MCIを引き起こす原因には、ADのほかにも脳梗塞やレビー小体型認知症、うつ病、そして甲状腺疾患など様々あり、単に「MCI治療薬」と呼んでしまうと、あらゆるMCIを治せる薬のような誤解を与えてしまうかららしい。たしかに。

 では、その早期AD治療薬はいったいいくらするのだろう。続けて年間の薬剤費を尋ねてみる。高額療養費制度があるとはいえ、レカネマブ点滴が年間約250万円、ドナネマブ点滴が約300万円——。妻がこちらに向かって何か言っているが、高額すぎて耳に入ってこない。

 もっとも、これら新薬が劇的に効いたとしても、海馬そのものの萎縮を止めることはできないようだ。まあ、加齢によるものもあるわけだから当然かもしれない。それでも、急激な萎縮を抑えられれば、それだけ記憶は保たれることになるのだろう。

海馬は“道を覚える脳”でもある

「モノなくしすぎだし、同じこと何度も尋ねるでしょう?」

 軽く反論しながらも、頭の中ではタツノオトシゴが優雅に泳いでいる。そのタツノオトシゴが次第に丸まっていって——海馬という名はタツノオトシゴに似た形状に由来する。

 ADを患っている人では海馬の萎縮がみられる。だから、疾患が海馬を萎縮させるのだと思いきや、そうとも限らない。つまり、海馬の萎縮のほうが先行していることもあるという。当然ながら、海馬が萎縮している人はADのリスクが高い。また、海馬はエピソード記憶の形成や想起に重要な脳領域というだけではなく、僕らのナビゲーション能力にも深く関与しているらしい。

どこかへ行くときには、ヒトの脳は海馬か尾状核のどちらかを使っているが、そのふたつの領域を同時にはたらかせることは絶対にない。つまり、一方を多く使うほど、他方を使わなくなるということだ。そして、特定の筋肉を鍛えるとその代償として別の筋肉が弱くなるように、特定の回路を長期間にわたって重用すると、それがほかよりも優先されるようになる。(中略)子どもや若年の成人は、新しい場所を動きまわって探索することが多い。年をとるにつれて、なじみのルートに頼り、認知能力をほとんどはたらかせない場所へ戻るケースが増えていく。つまり、海馬をあまり使わなくなるということだ。わたしたちの人生は、海馬の空間戦略の活用から自動化中心へ移行するという軌跡をたどる傾向にある

——M・R・オコナー(梅田智世・訳):WAYFINDING道を見つける力;人類はナビゲーションで進化した.インターシフト、p352、2021

 簡単に補足すると、海馬は空間記憶(空間学習)をもとに認知地図の作成に関与する。一方、尾状核という脳領域は習慣を蓄積し、いわばオートパイロット状態を可能にする。ゆえに、「優れた空間記憶能力を持っていれば、アルツハイマー病を防げる可能性もある」と、この本の著者は紹介している。

空間記憶を使う訓練をしている高齢者は、海馬活性が高く、海馬体積が大きく、より健康な認知機能を維持する傾向にある。(中略)何よりも重要なのは、認知地図を積極的に構築することだ。目的地に行くときに新しい道や近道を選ぶ。周囲の環境とランドマークの俯瞰図を定期的に描く。あるいは、日々の生活に新しい行動やルートを取り入れてもいい

——M・R・オコナー(梅田智世・訳):WAYFINDING道を見つける力;人類はナビゲーションで進化した.インターシフト、pp356-357、2021

道に迷わなくなった僕ら

 であるならば、GPS機能のおかげで道に迷わなくなった僕らは、正反対の道を歩んでいることになる。年をとらずとも、GPSに頼ることで、海馬をあまり使わなくなっているからだ。

「なるべくカーナビを使わないで、いろんなルートで運転するようにするよ」

 僕の唐突な宣言に、妻は少し困ったような顔をしている。

 ところで、引用した書籍によると、「道に迷うという体験は人間固有のもの」らしい。そりゃあ、人生に迷うのも人間だけのはず。でも、それは案外、好ましいことなのかもしれない。

山本 雄一郎(やまもと ゆういちろう)

1998年熊本大学薬学部卒。製薬会社でMRとして勤務した後、株式会社ファルマウニオン(本社:福岡市城南区)の前身である有限会社アップル薬局に入社。2014年1月から日経ドラッグインフォメーションOnlineコラム「薬局にソクラテスがやってきた」を連載(全100回)。2017年3月『薬局で使える実践薬学』(日経BP社)、2022年10月誰も教えてくれなかった実践薬学管理』(じほう)、2024年3月『ソクラテスが贈る若手薬剤師研修テキスト~薬局薬剤師として輝くために~』(kindle)、2024年9月『誰も教えてくれなかった実践薬歴 改訂版(じほう)を発刊。2017年4月より熊本大学薬学部臨床教授、同年8月より有限会社アップル薬局の代表取締役に就任。2024年1月より合同会社ファーマエディタ代表社員。有限会社アップル薬局の吸収合併に伴い、2025年1月より株式会社ファルマウニオンの代表取締役に就任。

@kumamotoPh usan_appleph

シェア