2026.09.10

【山本雄一郎のWebエッセイ】AI薬歴の杞憂、それとも警鐘?

「ささっ、どうぞ」

 納涼会で向かいに座った年配の薬剤師さんが、年季の入った手つきで、僕のグラスに琥珀色の液体を満たしていく。

「先生の薬歴の本、もってますよ。そうそう、薬歴といえば、僕はねえ、例のAI薬歴ってやつはどうも信用できんのですよ。あんなものに頼り始めたら、きっと薬剤師はダメになってしまいますよ。先生はどう思われますか?」

 グラスを置いた彼は、どこか寂しげに、それでいて強い口調で語った。

「あんなものに頼り始めたら」

 彼の心配はよくわかる。これは、新しい技術への単なる食わず嫌い、つまりは杞憂なのだろうか。いや、違う。AI薬歴という新たな技術、新たな「道具」に対する警鐘だ。

できるかできないかは、それは道具の能力の問題であって、もうそれぞれの人の能力の問題ではなくなっています。(中略)技術というものはそういうものであり、そのことによってわたしたちがどれほど多くの便益を得てきたかは言うまでもないことなのですが、一つだけどうしてもまずいことがのこったままになった。それはリテラシー、読み書き能力の無表情化、無個性化、平均化、そしてその結果としての無力化です

-長田弘:なつかしい時間. 岩波新書、p218、2013

 AI薬歴という新たな道具によって、薬剤師としての能力がスポイルされ、無力化される。これがいちばん怖いストーリーだろう。「あんなものに頼り始めたら」という彼のセリフには、そんな懸念が滲み出ている。

 だからこそ、道具の選定は大事だといえる。いま僕の薬局で採用しているAI薬歴、その内実は服薬指導を録音・文字起こししたものをSOAP形式へと変換する、いわば「要約薬歴」といったものだ。これについては、そこまでの脅威を感じることはないのだが、これからどんな方向に進んでいくかは注視しておきたい。

テウトとタモスが問う、技術の功罪

 ところで、新しい技術が社会に実装される際には、この手の懸念が必ずと言っていいほど語られてきた。古くは、プラトンの『パイドロス』にも、文字という技術をめぐってこんな寓話が登場する。

「王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵はたかまり、もの覚えはよくなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから」——しかし、タモスは答えて言った。

「たぐいなき技術の主テウトよ、技術上の事柄を生み出す力をもった人と、生み出された技術がそれを使う人々にどのような害をあたえ、どのような益をもたらすかを判別する力をもった人とは、別の者なのだ。いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう」

-プラトン(藤沢令夫・訳):パイドロス. 岩波文庫、p163-164、1967

 僕らはケータイを持つようになった頃から、電話番号を覚えられなくなった。パソコンやスマホでのタイピングが主流になってから、漢字は読めるけど書けなくなった。分包機が普及してから、きれいに薬包紙を折れなくなった。

 きっと先の指摘のように、文字を使いこなすようになったがために、記憶する力もいくらか衰えたのだろう。

それでも、AIを使わずにはいられない

 でもだからといって、それらがなかった時代に戻ることはできない。僕らはそうなるとは予想していなかったわけだが、たとえそうなるとわかっていたとして、それらの道具を使わずにいられただろうか?

 AI薬歴、否、AIという技術を手にして、「ほんとうは何も知らない」のに知っているつもりになり、「うぬぼれた」「つき合いにくい人間」になるわけにはいかない。考えることも、確かめることも、いつの間にか道具任せになってしまう。そうして薬剤師としての力まで手放してしまうことこそ、警戒すべきなのだろう。技術の負の側面をよく理解して、道具をよくよく吟味し、一人ひとりがそうならないように心がけていく。結局のところ、それしかないのではないだろうか。

 グラスの向こうで、彼はまだ僕の答えを待っている。

「まあ、色々と賛否はありますよね……」

 AI薬歴肯定派としての論戦を挑む気力もない僕は、話を濁してビールをあおったのだった。

山本 雄一郎(やまもと ゆういちろう)

1998年熊本大学薬学部卒。製薬会社でMRとして勤務した後、株式会社ファルマウニオン(本社:福岡市城南区)の前身である有限会社アップル薬局に入社。2014年1月から日経ドラッグインフォメーションOnlineコラム「薬局にソクラテスがやってきた」を連載(全100回)。2017年3月『薬局で使える実践薬学』(日経BP社)、2022年10月誰も教えてくれなかった実践薬学管理』(じほう)、2024年3月『ソクラテスが贈る若手薬剤師研修テキスト~薬局薬剤師として輝くために~』(kindle)、2024年9月『誰も教えてくれなかった実践薬歴 改訂版(じほう)を発刊。2017年4月より熊本大学薬学部臨床教授、同年8月より有限会社アップル薬局の代表取締役に就任。2024年1月より合同会社ファーマエディタ代表社員。有限会社アップル薬局の吸収合併に伴い、2025年1月より株式会社ファルマウニオンの代表取締役に就任。

@kumamotoPh usan_appleph

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