【山本雄一郎のWebエッセイ】古代のソーマと未来のソーマ

月曜日の夜、Eテレで伊集院光さんとゲストがオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』について語っているのを、ぼんやりと眺めていた。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』と並んで、世界三大ディストピア小説と呼ばれるらしい。
画面の中で繰り返される「幸福」という言葉の裏側に、どこか薄寒いものを感じながら、僕は職業柄、作中に登場する快楽薬「ソーマ」のことがどうしても頭から離れなくなっていた。
「暗いぞ、マルクス、暗い暗い」ぱんと肩を叩かれたバーナードは、驚いて顔をあげた。あの人でなしのヘンリー・フォスターだった。「そんなときは1グラムのソーマだ」
-オルダス・ハクスリー(黒原敏行・訳):すばらしい新世界.光文社古典新訳文庫、p83、2013
二つのソーマ、二つの幸福
ソーマは「キリスト教とアルコールの利点だけをとって、弊害は捨てた薬」で、その薬理作用は「多幸作用、麻酔作用、心地よい幻覚作用」らしい。もちろん、それは架空の薬で、物語のなかにおける階級社会を安定させるための統制ツールとして用いられている。そして注釈には、「この薬の名前はインド神話に出てくる神々の飲み物ソーマからとられている。植物の汁からつくられ、興奮と幻覚を引き起こす」とあった。この注釈を目にしたとき、同じ名前の飲み物について書かれていた本を思い出した。『毒の話』だ。
ちなみに、ソーマはヴェーダ祭式の最も重要な供物(神酒)を指し、植物そのものをも意味し、また神格化された神の名でもある。(中略)こうしてつくられたソーマは一種の興奮飲料として用いられ、飲む者を陶然たる快感にさそい、精神を高揚させた。ソーマはまた人間に活力、栄養を与え、心身を強壮にし、戦士に勇気を授け、子孫を繁栄せしめ、病気を癒し、寿命を延ばしたと伝えられる。(中略)しかし不思議なことに、現在に伝わる宗教の中ではソーマは完全に棄て去られ、ついにソーマの正体についてのよりどころは『リグ・ヴェーダ』の中にしか残されていない
-山崎幹夫:毒の話.中公新書、pp84-85、19853
古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』に残された、神々に捧げられた幻の神酒ソーマ。その原料として有力視された植物に「麻黄」がある。漢方薬でおなじみのマオウだ。
ただ、ここで一つ、どうしても薬理学的な矛盾が首をもたげる。ご存じの通り、麻黄の主成分はエフェドリン。アドレナリンに似た交感神経作動薬だ。つまり、気管支を広げ、鼻づまりを解消し、血圧や心拍数を上げ、眠気を吹き飛ばす「興奮剤」で、武勇の神インドラが戦う前に大酒したというエピソードにもしっくりくる。
対してハクスリーのソーマは、飲むとたちまち憂鬱な気分が消え去り、現実の嫌なことから優しく目を背けさせてくれる。大量に飲めば、副作用なしに数日間心地よい幻覚の海に漂えるという。エフェドリンを大量に摂取したら、心地よい幻覚を見るどころか、交感神経が暴走して、心臓がバクバクになって錯乱してしまうはずだ。
神々へ至る「興奮と解放」の古代ソーマと、家畜のように人間を大人しくさせる「鎮静と適応」の未来ソーマ。ハクスリーはきっと、この真逆の作用を持つ薬に同じ名前を与えることで、痛烈な皮肉を表現したのかもしれない。
薬が和らげる苦しみ、残る現実
ハクスリーが描いた「薬で人間をコントロールする世界」。これをフィクションと一蹴することはできそうにない。
薬局のカウンターに立っていると、日々いろいろな処方箋が回ってくる。ストレス社会を生き抜くための抗うつ薬や抗不安薬。日常生活や学習における不調や生きづらさを和らげる中枢神経刺激薬。それらは間違いなく、目の前の苦しんでいる人を救うための優しさから作られたものだ。そうなのだが、社会のほうに、この息苦しい世界のほうに、人間を適応させているだけだといわれれば、反論することは難しい(だからといって、現実をどうにかできるわけではないことがほとんどなのだけど……)。
さらにいえば、現実逃避の、ただ無為に時間をやり過ごすためのスマホだって、いわばデジタル・ソーマといってもいい。いつのまにか僕らから時間を、そして思考を奪っていく。
そんなことを考えながら、ぬるくなったコーヒーを啜りつつ、キーボードを叩いているともう深夜2時を回っていた。今夜はとても眠れそうにないが、眠れないときのゾルピデムはひとまずやめておく。こうしてエッセイを1本書けたのだから。
音楽家が不眠で美しい曲を書くのなら、それは美しい不眠というものだ
-サン=テグジュペリ(二木麻里・訳):夜間飛行.光文社古典新訳文庫、p44、2010
1998年熊本大学薬学部卒。製薬会社でMRとして勤務した後、株式会社ファルマウニオン(本社:福岡市城南区)の前身である有限会社アップル薬局に入社。2014年1月から日経ドラッグインフォメーションOnlineコラム「薬局にソクラテスがやってきた」を連載(全100回)。2017年3月『薬局で使える実践薬学』(日経BP社)、2022年10月『誰も教えてくれなかった実践薬学管理』(じほう)、2024年3月『ソクラテスが贈る若手薬剤師研修テキスト~薬局薬剤師として輝くために~』(kindle)、2024年9月『誰も教えてくれなかった実践薬歴 改訂版』(じほう)を発刊。2017年4月より熊本大学薬学部臨床教授、同年8月より有限会社アップル薬局の代表取締役に就任。2024年1月より合同会社ファーマエディタ代表社員。有限会社アップル薬局の吸収合併に伴い、2025年1月より株式会社ファルマウニオンの代表取締役に就任。
