冒頭、監修者は、本書を「医療技術評価のなかでも特に経済評価に焦点を当てた標準的な入門書」であると紹介している。また、「本書一冊で、これまで日本が歩んできたテクノロジーアセスメントの歴史を展望し、医療政策に経済評価を導入する概念と意義を認識することができる」、「専門家による座談会を通して、日本が抱える課題と今後の選択肢を検討することもできる構成となっている」としている。本書には、まさしくこれらの狙いが凝縮されているように思われる。学者、行政経験者、企業関係者等から成る20名に近い執筆陣が、いくつかの概念と進化の整理、各種方法論・手法の整理、日本のアプローチ、各国の歴史と取組事例及び指摘される問題点の整理、経済評価導入へ向けての針路と課題など幅広いテーマを、それぞれコンパクトに紹介しており、この意味で、本書は(評者を含めた)入門者にとって絶好の「標準的な入門書」であると思う。
しかし、本書は入門書にとどまるものではない。本書は、「医療政策に経済評価を導入する概念と意義」を紹介、考察しているが、それは決して一義的に認識できるものではないと思われる。「はじめに」において、城山氏は、医療技術評価において考慮されるリスクと便益の範囲設定は、「社会的選択の問題」でもあると指摘している。執筆者のそれぞれの視点は、本書の各氏の論説の中に滲み出し、又は明記されてくる。いくつかの論点と視点をあげれば、
・まず、「わが国では、国民皆保険制度の下で」、「ほとんどすべての医療行為が保険でカヴァーされて」いる。
・同時に、医薬品(及び医療技術)は、一般の財とは異なり「自由市場では最適な資源配分を実現する均衡価格が決まらない財」であり、「医療保険制度の中で診療報酬や薬価基準制度を通じて」、政府が価格決定に関与している。
・「医療技術の高度化と医療財政の逼迫という新たな環境条件の下で」、中医協の下に「費用対効果評価専門部会」が設置され、医療技術に対する経済評価手法の導入をめぐる議論が行なわれることとなった。平成24年度においては、大別して、「医療保険制度に費用対効果をどのように導入するか、評価の手法における技術的な問題点は何か、の2点が提起されている」。
・「公的保険制度のもとで、どこまでの医療をカヴァーするのか、どのような価格を付けるかは、新技術の開発促進、公平なアクセス保障と医療費の高騰防止が衝突するもっとも難しい制度設計の一つとなっている」。
・これらに関し、本書においては、次のような様々な視点があげられている。
―「社会全体の最適な資源配分を目指すのであれば、医薬品の効果を精査し、その価値を適切に評価」することが重要との視点(栁沢氏)
―「医療財源が限られているという財源的な問題からだけではなく、医療技術をできるだけ科学的かつ定量的に評価して、よりよい技術を効果的に患者に提供するという観点(土井氏)」
―「技術や製品の導入とそれらへのアクセスの確保を支えるとともに」、「研究開発活動の道筋やインセンティブを付与」するという視点(大西氏)
―「世界の経済のグローバル化」の中で、「日本に大きなポテンシャルのある医療を巡る諸産業が活性化し、世界の医療の発展に応分の寄与ができる」よう、インセンティブの付与とイノベーションの促進が重要との視点、及び、そのためにも、透明で予測可能性のある制度の設計と運用が重要との視点(林氏)
―「使い道については、医療費の効果的な使用、イノベーションの創出の両方」であるが、「医療技術の進歩そのものを止めるというのは本末転倒」であり、「ある程度医療費としては増やさなくてはいけない」という視点、また、目的については、「そのときの合理性、あるいは透明性を高めること」という視点(福田氏)
―「財源確保に向けた政治的・政策的努力と並行して、現在集められている公的財源を保険医療体制の枠組みの中で適切に配分していくためには、(イノベーションの対価を含め)経費投下の有用性を検証するための、手軽で使いやすく、かつ、公正で科学的な評価手法の確立が必須」であるとの視点(長瀬氏)
―「国家財政も危機的状況にあり、今後も増大が確実な医療費に対して、投入できる公費の額にも限界」があり、このままでは「皆保険制度の維持は困難であって、今後も進む高齢化と医療技術の進歩に応じつつ医療保険制度を維持していくためには、保険適用する医療技術や薬剤について、真に必要なものに限定していかざるをえない」。「その意味で、医療技術の評価の導入に向けての検討は不可避である」との視点(森田氏)
国民皆保険制度の持続の視点と、国民への適切な医療の提供、国際競争とイノベーションの促進といった視点は、本来ならば、排斥し合うものではなく支え合うものであるとも思われる。各視点のベストポイントを探るとともに、さらには好循環につなげていくことが一つの理想形ではあろう。本書において鎌江氏は、「わが国のように基幹産業の一つとして製薬産業を有する状況においては、医療技術評価導入の第一義を費用抑制とするのは正しい方針とはいえない。医療技術評価の導入の目的は、医療技術の正当な価値づけを行うことを通して医療イノベーションを促進しつつ、同時に医療の非効率を改善し、それにより現行の国民皆保険制度を持続可能なものとし、国民の健康水準の向上に貢献する点にある。医療技術評価導入の議論はその主軸に沿って行うべきである。」としている。
一方、目指す「良いシナリオ」が、医療技術の正当な価値づけによって自律的に実現するという保証はないと思われる。現に、わが国の保険制度は、保険料のみならず、国と地方公共団体の財政負担によって支えられている。公債という形で将来世代への負担の先送りという形にもなっており、これがさらに拡大していく懸念がある。持続可能な「良いシナリオ」を実現するためには、逆に、医療保険制度の現実を踏まえた「悪いシナリオ」への対応が必要となろう。そのためには、医療行為の正当な価値づけが、医療費の適正化につながるものでもあることへの強いコミットが必要になると思われる。医療費の適正化の視点は、ややもすれば後景に置かれがちなところがあるように感じるが、このことは、この視点が議論の大きな出発点の一つであるがゆえに、逆にそこだけに議論が埋没しないようにするという意識・視点が強く押し出されてくることの結果、という要素があるのかもしれない。本書において、森田氏は、「今後も進む高齢化と医療技術の進歩に応じつつ医療保険制度を維持していくためには、保険適用する医療技術や薬剤について、真に必要なものに限定していかざるをえない。」として、この問題を前景に位置づけている。
畢竟、医療技術評価の導入それ自体で物事の解決の方向が直ちに見出されるわけではなく、ここで再び、医療技術評価導入の視点・理念は何かという問題に立ち戻ることになると思われる。「どのような理念で導入を図るのかが手法を選択し、また逆に手法の持つ可能性と限界が理念の実現を制限するといった相互に依存するような関係が存在する(鎌江氏)」。これらは、まさしくこれからの中医協による審議の課題であろう。その際、「医療技術の評価に限らず、社会事象を対象とした評価方法で、唯一完璧な方法はまずないと言ってよいだろう(森田)」、「必要なのは、そうした客観的な方法によって「測定」された結果をどのように「評価」するか、換言すれば保険収載の可否を決める基準をどのように設定するかという議論である。(同)」という指摘には重いものがある。医療技術評価という難題に取り組む意義について、いかに広く国益に合致したものとし、また広く国民に理解を求めるか、本書においては、執筆陣が、問題を包括的にとらえるとともに、それぞれの立場を踏まえたうえで、真摯な議論を展開している。
思うに、世界に冠たる国民皆保険制度を持続していくためには、それなりの努力を要すると思われる。本書で記されているように、世界各国は、歴史の中でそれぞれの医療システムを構築してきた。わが国の場合、今日の医療水準は、国民皆保険制度によって支えられてきた。半面、わが国の医療保険制度は、残念ながら、現状、受益と負担(費用対効果に比べ、より全体的な意味合いということになろう)の均衡が大きく崩れているという事実は直視せざるをえないと思われる。医療保険制度を持続していくためにも、命と健康と国民負担に大きくつながる制度について、イノベーションの視点を含め、将来を展望した「選択」をしていく必要に迫られている。奥が深く、影響も極めて大きいテーマである。したがって、「医療経済評価が与える影響は単なる薬剤の値段の話ではなく、日本の保険制度の根幹、グランドデザインに関わるような話(森田氏)」であるということになろう。本書は、そのための問題提起の書でもある。
本書では、特に対談を含む後半部分において、これらの論点が、各人の視点の違いも含めて鮮明に浮かび上がっている。もとより、包括的に歴史・時代状況・背景を把握したうえでの各人の視点である。併せて、本書のもう一つの重要な価値は、そこに至るまでの丁寧な解説である。医療技術の評価の考え方や手法の変化の歴史、厚労省における医療技術評価の位置づけ、日本の薬価基準制度、経済評価の各手法の紹介及び可能性と限界、欧州諸国、アジア諸国、アメリカやラテンアメリカ諸国の取組事例等が、コンパクトに記されている。本書を入門書であるともする、監修者の意図がよく伝わってくる。その中で、知らず知らずのうちに、各種視点に思いをはせるようになる流れとなっている。考えてみれば大きなテーマである。「医療技術評価」という、技術的専門的な語感と異なり、その実体は、今後の高齢化社会を見据えた場合の我が国の医療制度のあり方、国際競争の中での産業のあり方、そして、消費税をはじめとする今後の受益と負担・税財政のあり方など、一国のありようにもかかわる問題である。この大きな課題を、淡々とまとめあげた執筆者・監修者に敬意を表したい。
なお、評者は、昔、国の財政当局に身を置いたことがあるとともに、ある地方公共団体において、地方の財政当局の立場から公立病院の財政再建計画に携わったことがあることも、それこそ透明性確保のために付記しておきたい。
東京大学政策ビジョン研究センター教授
三國谷 勝範